あなたがこれを読んでくださっているということは、ほんとうに、わたしのことを大なり小なり。大切に思ってくださっている方なのでしょう。
一昨日の夜、入眠困難に喘ぐなか、不穏に苛まれ、どっとツイッター疲れを感じた。
仕方がないのである。どこか歪んだ人々が集い合っているコミュニティである。
それゆえに、傷つけられてしまうことがある。
それは、わたし自身も歪んでいるからである。些細なことで勝手に傷つき自滅を引き起こす。
まず、スペースがしんどいのである。誰もわたしに話の場を与えてはくれまい。
自分で開いたスペースでさえ、乗っ取られない日はない。わたしをスペースから迫害するのは、一人や二人ではない。わたしは知らない人々に囲まれて、一声もかけられずにそこにいる。わたしを置いて、和気あいあいとしている人々の心底興味のない話(もはや聞く気もないので言語として耳が拾わない。音声といってもよい)を黙って聞いている。
『わたしはここにいてはいけない』
自分哲学をやっていると五本の指に入るくらい、よくたどり着く思考である。
ツイッターをやっていても、まるで透明人間になっている気分。
ツイッターにわたしの居場所はなく、誰もわたしの存在を目視することはできない。
中学生の頃、毎日、似たような胸中で生きていた。
教室のすみで、わたしは自分を「透明人間だ」と思っていた。ここにわたしの居場所はなく、誰にも見えなかった。
誰にも見えなかったから、特に迫害されることもなかった。
わたしは良い同級生に恵まれたと思う。よくも誰もわたしのことを、いじめに遭わせてこなかったな、と今でも考える。
そのくらい、疎外感を感じていたし、自分に自信がなくて。教室でみんなの前に立つことが困難になった。
毎朝、わたしがクラスメイトの健康観察をしなければならない係になってしまった。他に立候補した係があったはずだが、譲ってしまったら、こんなとんでもない係しかもう残ってはいなかった。
仕事はこれだけ。教卓の上に健康観察簿を広げて「体調の悪い人はいませんか」とクラスのみんなに一声掛けるだけである。クラスメイトの中に挙手する者があれば、どう体調が悪いのかを発言・伝達させ、それを記帳する。たったこれしきのことである。
しかし、クラスメイトの前に立って、わたしは声が出せなくなってしまった。視線が自分に集中することが、嫌で仕方がなかった。
担任は「こうすればいいんよぉ」と笑いながら先導してくれるが、わたしの頭の中は真っ白。実にぎこちなく、格好悪く、クラスメイト30人の前で不審な動きを見せ。余計に視線を、集めてしまったのであろうな。
いや、あの時は頭が真っ白ゆえに、みんなの視線の先が自分に本当に向けられているのかさえも確認できないほど。顔も上げられないほどだった。しかし、気配が、それとも不安の助けがあってか。たしかに人々の視線が自分に向いているのだろうと言う気配という名の脅威を感じ得ぬはずはなかった。
この時の時期の感覚に、まさしく似ている。
わたしはここにいてはいけない、いなくてもいい。いても、いなくても。誰にも気付かれない。
それを試したのが、『フォロワー120人大粛清』であった。
わたしには一昨日の夜まで120人余りのフォロワーがいた。殺気立っていたわたしは、120人のフォロワーを一人ひとり、自らの手でブロックし、そしてそれを解除した。
色々な感情と動悸が渦巻いていた。もう、色々なことを我慢し、許容するする余力がすっかり空っぽになってしまっていたんだな。
上にも述べたように、『ここにいてはいけない』つまりは、(元)フォロワーのフォロワーでいてはいけない、という思いがわたしを突き動かした。
そして、わたしはとにかく些細な他者のツイートで、自分の体調によるところもあるかもしれないが、大きく感情が揺さぶられてしまいがちなのだ。
すぐに自信を喪失し、それが自傷に代わることもある。
ツイッター見ながら、それも誰かとトラブルを起こしたわけでもなくて、ただただ他者が何気なくTLに投下したツイート、その文脈だけで腕をスパッとイケるおかずになる。振り回される。
これはツイートだけに留まらず、他者からのいいね通知ですら起こったりする。
そんな些細なこと。
これらから、解放されたくて皆を手放した。
正直、苦手だったが故に、これをきっかけにもう関わるまい、と決めた人もいる。逆に、好きすぎる、親しくしていただいていた者も多数いたが、わたしはフォロワーに優劣をつける勇気がなかった。
好きが故に手放したい者もいた。もう目に入れたくないと思った。
だから、120人を皆等しくブロック&解除。大粛清を行った。
これがわたしの病。
120人は向けられた、試し行動なのである。
これがわたしの育ち。
何が足りなくて、貰えもしない愛を追い続けるのだろう。
これがわたしの