母親が市外の薬物依存症の治療プログラムがある病院に電話したが、プログラムには集団で参加するものがあり、男性しかいない。それもイリーガル系の異邦薬物依存症の方々ばかり。病院の職員さんから「若いお嬢さんですから、負担が大きいのでは」と言われて母も渋った。わたしは入院していた精神病棟にいた若い女性患者につきまとうストーカーたちの顔を思い浮かべていた。あんなのがまたいたらたまったもんじゃあない。(だから前回の入院はカーテン部屋がないが、ストーカーたちから逃れたくて第4病棟に居座ったのであった)
その病院が母に勧めたのが、市の精神保健福祉センターに薬物依存症の相談をしに行くことだった。母は自分で予約をとり、その後に「だいさんちゃんが良ければどんなところか一緒に行ってみる?」と誘われた。困っているのはわたしなのだし母はさっぱりわたしの現状を理解していない。勝手な相談をされても困ると思ったし、誰かにわたしの話を聞いて欲しかった、助けて欲しかった。
母の運転する車に乗せられて連れてこられたのは見慣れた地下駐車場だった。ここには夜間・休日急患センターがあり何度か世話になった。大学時代は実習中の休日に熱を出して、慌てて受診したり。社会人になってからも嘔吐恐怖症でパニックになりゲロが止まらなくなりしんどすぎて夕方連れて行ってもらったのがこの急患センターだった。同じビルの別のフロアに『医師会』と書いてあったり、ビル全体が医療と福祉でできているようだった。
精神保健福祉センターに母が「こんにちは〜」と言いながら入る。何故か遠くの方から「お疲れさまです」と聞こえた。施設の関係者と間違われたようだった。用件を尋ねにきてくれた男性に本日予約を取った者ですと母が伝えると、すぐにワイシャツ姿の男性が現れて名を名乗った。この人は医師だった。少し珍しい苗字をしていて母がその名前を反芻した。わたしはここでおやおや、と思った。もしかして、🐰先生ではないか?
🐰先生は、わたしの元某フォロワーの元主治医であった。彼女は陽性転移をしこの医師にガチ恋していて不倫関係を匂わせていた。彼女が上げていた写真に、この目の前の医師は風貌が似ていた。マスクをしているから、この時点で同一人物とは断定できないけど、と思った。しかし元某フォロワーはたしかに、現在🐰先生はわたしの住んでいる県にいると言った。わたしは彼のフルネームを特定し調べたところ勤務先はてっきりもっと都会の方だだ思っていた。医師はわたしたちに苗字しか名乗らなかったが、確かに市のホームページに🐰先生の名前を見つけることができた。まさにこの精神保健福祉センターにお勤めであることがわかった。この医師が件の医師に違いなかった。
しかし、あの元フォロワーの気持ちがよくわかった。医師はすごく薬物依存症への理解が深く話しやすかった。わたしはこの日、特に自分から相談したいことなどなかった。なので、医師からの質問に淡々と答えていったわけなのだけれど、すごく流暢に、そして必要な情報を聞き出されていったのである。わたしはこの精神保健福祉センターでも、味方になってくれる人がいなかったらどうしよう、と思っていたのだが、医師は寄り添ってくれた。わたしのような人々をたくさん見てきたのだろうなということがわかる。わたしは、この人が主治医だったら良かったのにと思った。何故この人はこんなところにいるのだろう。どこかの病院にいて薬物依存症の治療に当たってほしい。わたしの住んでる市内には、依存症の治療を掲げている精神科はあっても、アルコールやギャンブル依存で。薬物依存症のプログラムを実施している病院はなさそうである。修羅の国の中でもガラの悪い地区なのに意外である。
この先生の治療を受けたいと思った。わたしといざこざがあった末にアカウントが凍結してしまった某元フォロワーが恋に落ちるのも納得の、癒しと安心感があった。ま、はるきゅんには負けるんだけどね。彼女が上げていた写真で見るより実物の方が(マスクはしてるけど)ハンサムに見えるし、しなやかで綺麗な指でキーボードを叩きながら記録を作成している。その左手の指にはしっかり指輪が光っていた。
一時間ほど医師と母とわたしと三人は一室にいた。
わたしは先日苦しすぎて、障害者基幹相談支援センターに行った際に、自分の現状をまとめて文書にしたものをこの日も持参していた。しかし隣に母がいる手前、この秘蔵の文書を取り出す勇気がなかった。家庭環境のことも書いていたから到底母親に見せられるものではなかったからである。しかしこれには後悔している。医師に、わたしが今家庭でどのような奇声の元で暮らしているかという前提が伝わっていないからである。これがこの日一番悔やまれたことである。
まず、医師はわたしに何か相談したいことがあるかと尋ねた。わたしは特に話したいことはありませんと言った。次に医師は母に相談したいことは何かと尋ねた。母は「薬物依存症の治療ができる病院を探している」「快楽のために薬を飲んでいるのではないか」「そこが依存症のラインを超えているのではないか」と不安を口にした。口調はまっすぐ。強かった。
そして医師は説明を始めた。薬物を乱用する人には二つのタイプがあって、一つは母の言うように快楽を求めて薬を使用するパターン(この快楽への興味が薬物乱用への入口になるとものちに言っていた)と、もう一つは生きづらさからの逃避として薬物を使わざるを得ないパターン。現在のわたしはもっぱら後者なのだが、希死念慮から逃避する手段を完全に禁止にして奪ってしまうと、希死念慮から逃れる手立てがなくなってしまう、というようなことを。医師はよりわかりやすい言葉で母に説明した。この説明がわたしには非常にありがたかった。
医師にどこの病院に通っているか、どのくらい通っているかを問われた。3年ほど通っていると答えてしまった。正しくは丸2年通って3年目になるといったところだ。
医師は、「3年も病院に通うってすごいことだと思うんだけど。それだけ通い続けられるってあなたにとって良い場所?お母さんは別の病院を探してらっしゃるみたいだけど病院が変わってしまうことについてはどう感じるかな」というようなことを訊かれたと思う。
なのでわたしは、今年度の4月で主治医が異動になり、前の主治医は気が合って好きだったけど今の医者はあんまりなので病院が変わっても構わないと言った。
ここからは医師によるわたしへの尋問が始まった。
どのお薬が好きか、と問われたので「コデイン系が好きです」と答えた。商品名だと何かな?と問われたので「トニンとブロンが好きです。あと、メジコン」と答えた。
「デキストロメトルファンか。コンタックの時からやってた?」と医師が言う。わたしはコンタックは飲んだことがない。
「メジコンがOTC化してからって感じかな」と医師が言うので、はいと答えた。
「飲み分けとかはあるのかな」
「メジコンはより酩酊感が欲しい時に飲んで、トニンとブロンはつらい時に飲みます」
母親が隣にいる中薬を語るのは気持ちとしては憚られたが、わたしは救って欲しくてほとんどの質問に素直に答えてしまう。
「もしかしてレスタミンも好きだったりする?」
「いいえ、レスタミンは合わなくて好きじゃないです」
医師の口からレタスの名が出てくるとは思わなかったのでびっくりした。レタスが好きか尋ねたのは、レタスODは意識が急にシャットダウンしてしまうことがあるらしく事故に繋がることが多いから、という懸念から尋ねたらしい。
「処方薬だと何が好きかな?」
「ベンゾ系が好きです」
わたしの隣には知人のうつ病経験者から『ベンゾ系は悪』と刷り込まれた母が隣に座っている。
「ベンゾのどれが好きかな」
「マイスリーは?」ここでも医者の口から自発的にこちらが話題にあげてない薬の名前が登場するのでびっくりしてしまう。まるでOD当事者のように知識がある。
「出してもらったことがないので……」
「良い病院だね」
「まあ……。気にはなるんですけどね」噂によるとマイスリーはたくさん飲むと目の前でパレードが開催されるらしい。実は一番飲んでみたい薬である。
「デパスは何mgあったら一日足りる?」
「……5mgくらい欲しいです」
「今どのくらい処方されてるのかな」
「1mgです」
「それは0.5mgを2回みたいな感じ?」
「いいえ。一日一回1mgです」
「……それは、少ないよね。足りないよね」
「足りないって訴えてるんですけど、出してもらえません」
「訴えてるんだ……。依存症の本当に酷い人になると一日に何件も内科を回ってデパスをもらう人もいるからね」わたしだって保険証が手元にあれば病院をはしごするさ。(こういうところで、わたしが規制だらけな生活を送っているという情報を医師にお渡しできなかったのが悔しいな、って思う)
他にもいくつか質問を繰り返し、医師は「たしかに薬物依存症ではあるかもしれませんが。今のところすごくコントロールしてお薬を飲めてるな、すごいなって思います」とわたしの現状を説明した。
「薬のことで娘さんと衝突したりするのはお母さまも苦しくないですか?」という医師の問いに母はまたも強い臨戦態勢の口調で「そんなことよりも身体が心配です。前みたいなことはもう……命が」と、答えた。数ヶ月前にベンゾODをしたところ解離を起こしその間に首を吊ってしまって救急搬送され入院していたことは、どんな脈絡で尋ねられたかは忘れたがこの目の前の医師にはお伝え済みであった。
「じゃあ日頃から死にたい気持ちがある?」
「はい」
「それはいつぐらいからかな」
「小学校6年生くらい……」
「明確な時期が出てくるということは、何か出来事があったのかな。……お薬をたくさん使う人の中には自傷行為だったり、過食嘔吐をしてしまう人も結構いるんだけどどうかしら?」この医師、やたらと『どうかしら?』もいうものの尋ね方をする。それが耳に焼き付いて離れなかった。物腰が柔らかく感じられる。
「リストカットを。中学生の時からです」
「自傷行為って最初は人に気づかれないようにやる人が多くて、だんだん派手になって見つかっちゃっておおごとになっちゃう人が多いんだけど、第3病棟さんはどうだったかな」
「最初は太ももにしてたんですけど。入院した時に自傷で手に引っ掻き傷を作ってしまって。そこから腕にするようになりました」
「今まで病院ではどのような診断を受けてきましたか」
「最初は……別のメンタルクリニックにかかってパニック発作を伴う嘔吐恐怖症と言われたんですけど、そのあと薬物乱用がみられて『うちでは診られません。入院施設のある病院へ』と言われて。今の病院に変わった時に一旦うつ病と診断されたんですけど今は躁転が見られたので双極性障害に名前が変わってます。あと、境界性パーソナリティ障害とも言われました」
「パニック障害、うつ病、境界性パーソナリティ障害、双極性障害の中で自分のことを表している病名だな、と一番感じるのはどれですか」
「うつ病とボーダーです」
「どういうところがボーダー……境界性パーソナリティ障害だと感じる?」母に聞かれてもよくわからないように言葉を変えたのに訂正されてしまう。
確かに。自分では当時ボーダーの診断が降りたことに納得と安堵があったのに。どこがボーダーっぽいかと問われたらイマイチ、うまく説明できない。
「見捨てられ不安が強いと言われました」
「うつ病になったきっかけは何かあるかな」
わたしは母が隣にいるが堂々と言ってやった。「両親の不仲です」
「お薬の飲み方についてはどう思ってるかな。必要な時には飲みながら、生活していきたいかな。それとももうスパッと辞めたい?」
「飲みながらが良いです」
医師は、治療の手段の一つとして福岡市にある病院の名を上げてくれた。そこで入院して薬物依存症治療プログラムを受けてみること。
それから、薬物依存症とはまた別の病院でも良いので、双極性障害の治療を集中的にやっていくこと。
「僕だったらお薬を飲みながら生活を続けてもらって、徐々にお薬が手放せるようにならば良いね、って思うかな」と医師が言った。
「でも、今は主治医の指示で薬は全部親が管理していて、薬を買っても怒られるし」医師は薬を増やしてもくれないし、お金も親が管理しててそもそも買うのも困難だし。
母はわたしを精神保健福祉センターに通わせるつもりだったらしい。わたしもそのつもりでいた。
しかし、精神保健福祉センターは通うようなところではなく。大抵一度きりの相談を受け付けているという立ち位置にあるらしい。
母親は本日開催されている『薬物依存症の当事者の家族教室』みたいなものに参加するらしく「僕もいるので声かけてもらっても全然良いですよ」とは言ってくださったけれど。
母も帰り際に「良い人だったね。だいさんちゃんがお話ができる場所があれば良いなと思ったんだけど毎週とかは通えないんだね。ああいう先生が病院にいてくれたら良いのにね」と言っていた。精神科医(わたしの歴代主治医)を目の前にするとすぐに敵認定して身構えてしまう母も、この日話した医師は良い人にうつったらしかった。
帰宅したら、母親の懺悔が始まった。わたしが「両親の不仲でうつ病になった」と言ったのが刺さったのであろう。
「若くしてだいさんちゃんを産んでさ、その日から突然お母さんになって……」もうわたしの歳の頃にはわたしの母親はわたしを産んでいた。育児に追われ家事はワンオペ。実はモラハラ気質だった父への嫌悪感、そして不機嫌な態度をとっていると父が怯んで話しかけてこないことから防衛のためにヒステリックに振舞っていたことを語っていたが、わたしはいつも自分が計画された望まれた妊娠ではなく、デキ婚で授かった子どもであることに負い目を感じるのである。わたしさえいなければ母も狂わなかった。父も母に虐げられなかった。弟はもちろん生まれずに、面前DVなど受けなかったのに。
謝られてもわたしのうつ病は治らない。薬物依存も治らない。