ずっと、愛しています

 妻が、旦那に最期に贈った言葉。

「変わらずずっと、愛しています」そう言って、妻は棺桶の上に白い花束を置いた。

 

 今日は葬儀だった。幼なじみの父親が急逝した。

ガタイが良くて、その身体のように大きな父性を持っているような、あたたかくてやさしいパパだった。赤ちゃんだった頃からわたしたちとは家族間で交流があり、この間、最後に会った時も。マンションの駐車場の抽選会で、マスクをつけた大男が手を振ってきた。まさかわたしたちに振っているとは思わないで、顔も見らずに通り過ぎようとしたら、俺だよ俺、と言って怒ってきた。今度北海道に出張で行くから、お土産を買ってくるからね。真に受けてなかったのに。ほんとうに、『白い恋人』を届けてくれた幼なじみのパパ。真面目な人だった。

わたしの母は「ただ眠っているだけみたい」、亡くなっているのが信じられないと言った。しかし、わたしの目には死者の顔に見えた。血色はすごく良い。でも、口が開いている格好が、不自然に硬直していて、たしかにこれはもう二度と目覚めないのかもしれないと思った。今日、たくさんのお花に埋もれた幼なじみのパパの顔を見たら昨日よりもっと涙が出た。

「よく頑張ったね。ありがとう。大好きだよ。ドライブに連れて行って。わたし、待ってる」いつも呼んでたあだ名を呼びかけて、わたしは別れを言った。

わたしが最後に入院した時。首を吊って入院した時。幼なじみのパパは、わたしをものすごく気にかけてくれたらしい。わたしを気分転換に、ドライブにでも連れ出そうか。そう言ってくれていたらしい。入院中にくれた幼なじみ一家での寄せ書きにも『バイクの後ろいつでも空いてます。(妻の名前)は乗ってくれません』と書いてあった。これがわたしにとって幼なじみパパの形見になるなんて。思わなかった。何故わたしは助かって、幼なじみのパパは助からなかったんだろう。わからない。妹を亡くした時の戸川純のような気分だった。この通夜と葬儀を過ごして、感じたこと考えたことはたくさんあった。

 

 わたしは、愛し合っている大人を知らない。わたしの家庭は仮面夫婦。親同士が思いやり、慈しみ合い、愛し合っているところを見たことがない。家族愛に夫婦間の愛はない。わたしは愛を知らずに育ってきた。でも、幼なじみは違う。幼なじみは傍目から見れば、息子二人も立派に育ち、兄弟仲も夫婦仲も良く。幼なじみは今日の葬儀でマイクの前に立ち自分たちを「家族バカ」と言った。すごくあたたかで平和な家庭だった。

でも、それにも終わりが来るんだと知った。愛を誓っても、いつかはこうして別れが来るのだということを、知った。目の当たりにしてしまった。永遠の愛なんて無くなってしまうんだとわかった。

 

 幼なじみパパの死を受けて、わたしは深く悲しんだ。式中はずっとずっと泣いていた。でもほんとうはもっともっとこの胸の内を表現したかったし、それを誰かに受け止めて欲しかった。でも、その時、わたしのそばには何もなくて、誰もいなくて、泣き叫ぶ相手がいなかった。わたしのヒスを受け止めてくれる人はいなかった。

幼なじみは泣きながら、最近結婚したばかりの奥さんを抱きしめていた。幼なじみの弟も、自分の彼女を呼び寄せて、抱いた。わたしも、この気持ちを誰かと共に分かち合って、抱きしめて、泣いてくれる人が欲しかった。もっと近くで、彼の愛を感じたかった。

 

 わたしの恋人は東京にいる。新幹線で4時間半の距離。涙を流したら、その涙が渇く前に、その胸に抱き止めて泣かせてくれる人が、ここに欲しいと思った。わたしは悲劇的な不幸の最中に、しあわせの一幕を見たんだ。見せつけられた。わたしには、それがない。彼らの持っているものが、なにもない。仕事、信頼、幸せで安心できる家族、居場所、ほんとうに、なにもない。

わたしはひとり、福岡の地で静かに泣きながら、一人で立ち尽くし、やがて黙って去るしかなかった。

 

ずっと、愛しています。愛だけでは。敵わない。現実に。