ずっと、愛しています

 妻が、旦那に最期に贈った言葉。

「変わらずずっと、愛しています」そう言って、妻は棺桶の上に白い花束を置いた。

 

 今日は葬儀だった。幼なじみの父親が急逝した。

ガタイが良くて、その身体のように大きな父性を持っているような、あたたかくてやさしいパパだった。赤ちゃんだった頃からわたしたちとは家族間で交流があり、この間、最後に会った時も。マンションの駐車場の抽選会で、マスクをつけた大男が手を振ってきた。まさかわたしたちに振っているとは思わないで、顔も見らずに通り過ぎようとしたら、俺だよ俺、と言って怒ってきた。今度北海道に出張で行くから、お土産を買ってくるからね。真に受けてなかったのに。ほんとうに、『白い恋人』を届けてくれた幼なじみのパパ。真面目な人だった。

わたしの母は「ただ眠っているだけみたい」、亡くなっているのが信じられないと言った。しかし、わたしの目には死者の顔に見えた。血色はすごく良い。でも、口が開いている格好が、不自然に硬直していて、たしかにこれはもう二度と目覚めないのかもしれないと思った。今日、たくさんのお花に埋もれた幼なじみのパパの顔を見たら昨日よりもっと涙が出た。

「よく頑張ったね。ありがとう。大好きだよ。ドライブに連れて行って。わたし、待ってる」いつも呼んでたあだ名を呼びかけて、わたしは別れを言った。

わたしが最後に入院した時。首を吊って入院した時。幼なじみのパパは、わたしをものすごく気にかけてくれたらしい。わたしを気分転換に、ドライブにでも連れ出そうか。そう言ってくれていたらしい。入院中にくれた幼なじみ一家での寄せ書きにも『バイクの後ろいつでも空いてます。(妻の名前)は乗ってくれません』と書いてあった。これがわたしにとって幼なじみパパの形見になるなんて。思わなかった。何故わたしは助かって、幼なじみのパパは助からなかったんだろう。わからない。妹を亡くした時の戸川純のような気分だった。この通夜と葬儀を過ごして、感じたこと考えたことはたくさんあった。

 

 わたしは、愛し合っている大人を知らない。わたしの家庭は仮面夫婦。親同士が思いやり、慈しみ合い、愛し合っているところを見たことがない。家族愛に夫婦間の愛はない。わたしは愛を知らずに育ってきた。でも、幼なじみは違う。幼なじみは傍目から見れば、息子二人も立派に育ち、兄弟仲も夫婦仲も良く。幼なじみは今日の葬儀でマイクの前に立ち自分たちを「家族バカ」と言った。すごくあたたかで平和な家庭だった。

でも、それにも終わりが来るんだと知った。愛を誓っても、いつかはこうして別れが来るのだということを、知った。目の当たりにしてしまった。永遠の愛なんて無くなってしまうんだとわかった。

 

 幼なじみパパの死を受けて、わたしは深く悲しんだ。式中はずっとずっと泣いていた。でもほんとうはもっともっとこの胸の内を表現したかったし、それを誰かに受け止めて欲しかった。でも、その時、わたしのそばには何もなくて、誰もいなくて、泣き叫ぶ相手がいなかった。わたしのヒスを受け止めてくれる人はいなかった。

幼なじみは泣きながら、最近結婚したばかりの奥さんを抱きしめていた。幼なじみの弟も、自分の彼女を呼び寄せて、抱いた。わたしも、この気持ちを誰かと共に分かち合って、抱きしめて、泣いてくれる人が欲しかった。もっと近くで、彼の愛を感じたかった。

 

 わたしの恋人は東京にいる。新幹線で4時間半の距離。涙を流したら、その涙が渇く前に、その胸に抱き止めて泣かせてくれる人が、ここに欲しいと思った。わたしは悲劇的な不幸の最中に、しあわせの一幕を見たんだ。見せつけられた。わたしには、それがない。彼らの持っているものが、なにもない。仕事、信頼、幸せで安心できる家族、居場所、ほんとうに、なにもない。

わたしはひとり、福岡の地で静かに泣きながら、一人で立ち尽くし、やがて黙って去るしかなかった。

 

ずっと、愛しています。愛だけでは。敵わない。現実に。

 

 

覚えてないんだね

 大晦日の車内。去年は病棟にいたけど、今年は娑婆で大晦日を迎えられた。我が家は毎年大晦日の日には朝から出かけて、夜に食べるご馳走の食材を買い、過ごし離れたイオンモールまで行ってショッピングをするというのが例年のお決まりである。二年ぶりに行ったあのイオンからZARAが消えていたのもショックだけど、車内でのこんなやりとりもわたしはなんだか寂しかった。覚えてないんだね。

 

 コストコで食材を買って、祖母の家に運び込んだ。そしてお昼時。イオンに着く前に腹ごしらえをしよう、さて何を食べようかと車内で話していた時のこと。わたしがうどんの話をしたから、家族はすっかりうどんを食べる気になって、道中のうどん屋を探していた。その途中、車窓からコメダ珈琲店が見えた。

「前にコメダでお昼ご飯を食べたこともあったよ」大晦日の昼食をどこでとるか。イオンモールのフードコートで食べることもあったし(早めに昼食をとっておかないと夕食が入らなくなるため今年は却下)、コストコで男たちはホットドッグを、わたしたち女はクラムチャウダーを(あんまりたくさん食べすぎると夜のご馳走が食べられなくなるから)食べることもあった。しかし三年前の大晦日、わたしたちはコメダ珈琲店で昼食をとったことがあった。

しかし、信じられない。母親が口を開いた。

「そんなの、全然覚えてない」

え?あのコメダ珈琲店での風景と家族の最悪の団欒を覚えていないだって?

わたしは弟にも尋ねた「コメダでお昼ご飯食べたことあるよね、弟ポン」

弟ポンは「あったね」と言った。ほら、やっぱり。子どもたちは覚えている。

 

 三年前の大晦日、食事の途中に父親が口を開いた。

「転勤になって九州営業所になった。福岡に戻ります」

するとそれを聞いた母が即座に「有り得ない、絶対無理」と言い放った。

この時、父は熊本にいた。わたしたち家族を福岡に置いて、父は単身赴任をしていた。転勤が決まり、福岡にある九州営業所に配属されることが決まったと家族に告げた。ところが、母はそれを拒絶した。

「絶対住めない」

一緒には住めない、母が冷たく、ヒステリックに鳴いた。明日は元旦。大晦日の買い出し。我が家が一年で一番のご馳走を食べて、年末年始のセールの中で目一杯ショッピングして。楽しい大晦日。その始まりに、母は家族の団欒を一瞬にして台無しにした。我が家に戦慄が訪れた。その地を、あの光景を。コメダ珈琲店を。覚えていないだって?

 

 この翌日、2021年の1月1日。母は話があると言って家族をリビングに集めた。もう父親とは暮らせない、私は出ていくと宣言した。わたしも弟も泣いて嫌がった。わたしの家庭はもうずっと両親が仮面夫婦。父親のことを母親は無視をしたし、キツく当たった。そのヒステリーをわたしたち子どもが浴びることもあった。見ているだけで不愉快だった。父親はいつかうつ病になって自殺するんじゃないかと不安だった。母はいつも怒っていて不機嫌なのでわたしは息を吐く間も無く、家庭の中に安心などなかった。いつかこの日が来ることは分かっていたけれど、この日が来ることがものすごく怖かった。ほんとうに、絶望した。

この日からわたしの人生は転落を続けている。両親の離婚がショックで、わたしは市販薬をバリバリボリボリ飲むようになった。ベンゾで日々のつらい記憶を消した。毎日死にたいと言って薬を食べ続けた。それを見ていた当時の恋人は、わたしを恐れてわたしを捨てた。過去に自分も希死念慮を抱いていたことがあった、それを思い出してしまうと言って泣かれた。「ほんとうに死のうと思ったことがある?」そう言われた日、わたしは博多駅で首を吊ろうと思っていた。しかし彼があんまりにも可哀想に泣くもんで心配になり、さようならと去っていく彼につきまとって自宅とは違う行き先の電車に乗った。知らない駅まで、彼を見送ったら呆気に取られた気になって、首を吊らずに家路についた。健全な家族(健全ではなかったけど、わたしは健全な家族でいられるように、両親の間に揉まれながらずっと努力して来た)と好きな人を失ったわたしは荒れに荒れ、毎日薬をジャラジャラと飲んでいた。メンクリからは過量服薬と自殺企図が問題になり追い出されて今通っている入院施設のある精神科に。そこで初めてうつ病という病名がつけられて、そのままはじめての入院に。この時の大うつがまだまだ続いていて、まだまだ生活はままならない。仕事に毎日は通えないし、まだ過量服薬に逃げる癖はある。いや、ほんとうは家族が破綻した幼い時からずっと、わたしはほんのりと死にたいと思っていた。

 

 ほぼ5年手帳、2021年から始まっている。

『家はメチャクチャ。父が熊本から家に帰ってくる。ママは出ていくと言っている。私は……どこに身を置けば良い?こんな日に。離婚決定!!!サイテー!』

ここからわたしが人生から転落していく様が、つぶさに記されている。わたしは、まだ忘れられない。三年前のあの日のコメダ珈琲店のことも、守りたかった家族が、指の隙間からすべりおちて崩れていったあの瞬間のことを。

 

 

 

自撮り上げるのに……?顔面コンプの話

 昨日の夜中、恋人の前で大泣きしてしまった。自分の容姿に自信が持てないからである。自分と他者とを比較してしまった。たまたま、話の流れで話題に上がった女の子がいた。あの子はいいな、顔もかわいくて、それを周りからもしっかり評価されて、才能もあって。それに比べてわたしといえば、周りの人に容姿を褒められることはあっても、ただそれだけ。SNSでのわずかなフォロワーのぬくぬくした狭い世界で、すこしチヤホヤされるだけ。しくしくと声を上げて泣いてしまった。泣いている間に、気がついたら寝てしまっていた。

せっかく美容院に行ってかわいくしてもらったのに。今日のわたしはかわいいんだって、うきうきで帰ってきたつもりだったのに。

 

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 目が覚めて昨日の通話で泣いてしまったことを思い出した。自己嫌悪に陥った。夜分の通話ははるきゅんの命令で禁止されている。しかしそれをこっそり行っている。親にバレぬように小声で、息を殺して。そんな恋人との大切な時間を泣いて潰しちまった。

 

 昨日の涙は、そもそも話題に上がった女の子への憧れと嫉妬に近いものがあった。一時期片思いフォローをして、10年くらいはぼんやり彼女のことを見ていた時期があった。わたしは彼女のことが好きで、フォローしていた。

 

 しかし、自分の容姿に自信が持てないことへの根底に、中学時代の記憶があったことをふと思い出したのである。

わたしの中学時代はまさに暗黒時代であった。

わたしの抑うつは小学校六年生あたりから始まった。両親の不仲が加速したのである。小学校高学年になったあたりから、両親が家庭内でよく喧嘩をして話し合いをしていた。そしてやがて、二人は口を利かなくなり、母は自宅ではいつも機嫌が悪く、わたしの父親を拒絶するような態度を取り始めた頃。そして中学生になり、学内カーストという壁にぶち当たった。わたしは絶望的に運動神経が悪かったため、美術部に入部した。あとはお察しである。中学一年生の頃は、まだ『リストカット』と言う概念を知らなくて。頭のあまり良くなかったわたしは、テストの点数が悪いと自己嫌悪に陥って指の皮を引っ掻いて剥いて、自傷を行っていた。わたしはクラスに友だちがいなかったため、教室内でずっと無口でいたら、彫りがやけに深い顔立ちのせいもあるのだろう。ハーフに間違えられ、クラスメイトから「日本語、話せる?」と声をかけられるほどにわたしは人と話せない学生時代を過ごしていた。

 

 そして迎えた中学二年生。わたしは晴れて幼馴染のSちゃんと同じクラスになった。Sちゃんはほんとうにすごい。驚くなかれ、わたしの顔面を褒めはやすフォロワーたちよ。わたしがいままで出会ってきた女の中で一番顔がかわいい。わたしの100倍もかわいいのである。男子は誰もが彼女を高嶺の花だと夢見た。しかしかわいいだけに止まらない。勉強ができて学年で一桁はザラ、運動神経も抜群でバレエを舞い、バク転をしていた姿が懐かしい。溌剌としていて明るい性格で友だちもたくさんいて、彼女は人気者だった。いっしょにいて楽しい。非の打ち所がない人間とはまさに彼女のことである。

彼女は学校で太陽のように輝いていた。

しかし、その隣にいた、勉強もできない運動は絶望的。顔も中途半端なわたしは。彼女の陰になったような気分だった。彼女と過ごす時間は楽しい。しかし、強烈な劣等感を抱かずにはいられなかった。

Sちゃんは先生たちからも一目置かれていた。担任は生徒会に入っているSちゃんにデレデレで、贔屓される様をいつも隣で見ていたわたしは、常に病んでいた。

今は地元を離れて東京の大学に通い、そのまま東京で就職をしたSちゃんとは、年に数回しか会えない。うちらの友情は、あの中学の時の二年四組を共に過ごした一年間だけでは覆らないし、なんなら忘れかけていたけど。当時のわたしは、いつも胸に翳りを抱えて毎日、Sちゃんの隣で笑っていた。なんでもできてみんなからの称賛を浴びているSちゃんを見ていると、わたしは空気にでもなったような、透明人間になったような、そんな心地だった。わたしの居場所は二年四組にはない。ここにはない、どこにもない。と、いつもいつも思っていた。

 

 わたしに強烈なコンプレックスを植え付けたのはSちゃんと過ごした二年四組の時間だけではない。

わたしのそばには、さすがにSちゃんには劣るが、もう一人容姿端麗の者がいた。それは、母親である。

わたしの顔を称賛してくれる者なら容易に想像ができるかもしれないが、わたしの母親はまさにその一言で形容できるほど『美人』なのである。とはいえ、わたしは母親似ではない。かといって父親にも似ていないが。

母親はぱっちりとしてキリッと、そして凛とした派手な目元に高くて綺麗な鼻を持ち、唇も良い塩梅にぷっくりと分厚い。もうすぐ50歳になるが、一緒にいると姉妹に間違えられる。街に出たり、入院している病棟でも母はわたしの姉に間違えられた。誰に紹介しても皆がわたしの母に「とても美人」と言う。高校時代は、同級生にわたしの母のファンが(もちろん女の子だけど)湧いたほど。そんな母親の隣にいたら……。

ミドリカワ書房という人の曲に『顔2005』というものがある。整形をするという決意を母親に話す、という曲なのだが。自分の顔に自信を持てないことに、"だけど ママは綺麗だから 絶対わからないわ"という節には共感したもんだ。

 

 わたしは第3病棟になって、最近になって、やっとわたしは他者から「かわいい」と称賛されることもある顔なんだ、と自己評価を改めることができた。これも自撮りにいいねをし、時にはリプで言葉で褒めてくれるフォロワーたちのおかげである。第3病棟になるまでわたしは自分のかわいさを知らなかった。称賛はいつもSちゃんが、そして母が、受けるものだったからである。わたしをわたしとして承認してもらえる体験がなかった。

まだ、わたしの中には自分の容姿に自信を持てない自分がいる。「かわいい」とは言われても。どうせわたしはちょっぴりかわいいだけで。さほど優れてない。一番かわいいわけではないと知っているからである。

気が向いたらでいい。フォロワー各位にはどうか、わたしの顔を見たら。そしてそれを良いと思えたら。それを伝えてくれると嬉しい。リプライで言葉をくれとまではいわない。いいねでも充分である。わたしはわたしなりに、この危うい自己肯定感を安定させてゆくから。

 

 今朝は彼が早くに起きてきて、たくさんかわいいかわいいと褒め、大好きだと言い、あやしてくれた。

 

 

 

 あーあ、そういえば。はじめて入院した時、病棟で「べっぴんさんだね」と複数の男性患者から褒められ褒められ、そして執拗に付き纏われてたことを思い出した。あれがわたしのモテ期。最悪だ。

精神保健福祉センターに相談に行ったお話

 母親が市外の薬物依存症の治療プログラムがある病院に電話したが、プログラムには集団で参加するものがあり、男性しかいない。それもイリーガル系の異邦薬物依存症の方々ばかり。病院の職員さんから「若いお嬢さんですから、負担が大きいのでは」と言われて母も渋った。わたしは入院していた精神病棟にいた若い女性患者につきまとうストーカーたちの顔を思い浮かべていた。あんなのがまたいたらたまったもんじゃあない。(だから前回の入院はカーテン部屋がないが、ストーカーたちから逃れたくて第4病棟に居座ったのであった)

 その病院が母に勧めたのが、市の精神保健福祉センターに薬物依存症の相談をしに行くことだった。母は自分で予約をとり、その後に「だいさんちゃんが良ければどんなところか一緒に行ってみる?」と誘われた。困っているのはわたしなのだし母はさっぱりわたしの現状を理解していない。勝手な相談をされても困ると思ったし、誰かにわたしの話を聞いて欲しかった、助けて欲しかった。

 

 母の運転する車に乗せられて連れてこられたのは見慣れた地下駐車場だった。ここには夜間・休日急患センターがあり何度か世話になった。大学時代は実習中の休日に熱を出して、慌てて受診したり。社会人になってからも嘔吐恐怖症でパニックになりゲロが止まらなくなりしんどすぎて夕方連れて行ってもらったのがこの急患センターだった。同じビルの別のフロアに『医師会』と書いてあったり、ビル全体が医療と福祉でできているようだった。

 

 精神保健福祉センターに母が「こんにちは〜」と言いながら入る。何故か遠くの方から「お疲れさまです」と聞こえた。施設の関係者と間違われたようだった。用件を尋ねにきてくれた男性に本日予約を取った者ですと母が伝えると、すぐにワイシャツ姿の男性が現れて名を名乗った。この人は医師だった。少し珍しい苗字をしていて母がその名前を反芻した。わたしはここでおやおや、と思った。もしかして、🐰先生ではないか?

🐰先生は、わたしの元某フォロワーの元主治医であった。彼女は陽性転移をしこの医師にガチ恋していて不倫関係を匂わせていた。彼女が上げていた写真に、この目の前の医師は風貌が似ていた。マスクをしているから、この時点で同一人物とは断定できないけど、と思った。しかし元某フォロワーはたしかに、現在🐰先生はわたしの住んでいる県にいると言った。わたしは彼のフルネームを特定し調べたところ勤務先はてっきりもっと都会の方だだ思っていた。医師はわたしたちに苗字しか名乗らなかったが、確かに市のホームページに🐰先生の名前を見つけることができた。まさにこの精神保健福祉センターにお勤めであることがわかった。この医師が件の医師に違いなかった。

 

 しかし、あの元フォロワーの気持ちがよくわかった。医師はすごく薬物依存症への理解が深く話しやすかった。わたしはこの日、特に自分から相談したいことなどなかった。なので、医師からの質問に淡々と答えていったわけなのだけれど、すごく流暢に、そして必要な情報を聞き出されていったのである。わたしはこの精神保健福祉センターでも、味方になってくれる人がいなかったらどうしよう、と思っていたのだが、医師は寄り添ってくれた。わたしのような人々をたくさん見てきたのだろうなということがわかる。わたしは、この人が主治医だったら良かったのにと思った。何故この人はこんなところにいるのだろう。どこかの病院にいて薬物依存症の治療に当たってほしい。わたしの住んでる市内には、依存症の治療を掲げている精神科はあっても、アルコールやギャンブル依存で。薬物依存症のプログラムを実施している病院はなさそうである。修羅の国の中でもガラの悪い地区なのに意外である。

 この先生の治療を受けたいと思った。わたしといざこざがあった末にアカウントが凍結してしまった某元フォロワーが恋に落ちるのも納得の、癒しと安心感があった。ま、はるきゅんには負けるんだけどね。彼女が上げていた写真で見るより実物の方が(マスクはしてるけど)ハンサムに見えるし、しなやかで綺麗な指でキーボードを叩きながら記録を作成している。その左手の指にはしっかり指輪が光っていた。

 

 一時間ほど医師と母とわたしと三人は一室にいた。

 わたしは先日苦しすぎて、障害者基幹相談支援センターに行った際に、自分の現状をまとめて文書にしたものをこの日も持参していた。しかし隣に母がいる手前、この秘蔵の文書を取り出す勇気がなかった。家庭環境のことも書いていたから到底母親に見せられるものではなかったからである。しかしこれには後悔している。医師に、わたしが今家庭でどのような奇声の元で暮らしているかという前提が伝わっていないからである。これがこの日一番悔やまれたことである。

 

 まず、医師はわたしに何か相談したいことがあるかと尋ねた。わたしは特に話したいことはありませんと言った。次に医師は母に相談したいことは何かと尋ねた。母は「薬物依存症の治療ができる病院を探している」「快楽のために薬を飲んでいるのではないか」「そこが依存症のラインを超えているのではないか」と不安を口にした。口調はまっすぐ。強かった。

そして医師は説明を始めた。薬物を乱用する人には二つのタイプがあって、一つは母の言うように快楽を求めて薬を使用するパターン(この快楽への興味が薬物乱用への入口になるとものちに言っていた)と、もう一つは生きづらさからの逃避として薬物を使わざるを得ないパターン。現在のわたしはもっぱら後者なのだが、希死念慮から逃避する手段を完全に禁止にして奪ってしまうと、希死念慮から逃れる手立てがなくなってしまう、というようなことを。医師はよりわかりやすい言葉で母に説明した。この説明がわたしには非常にありがたかった。

 

 医師にどこの病院に通っているか、どのくらい通っているかを問われた。3年ほど通っていると答えてしまった。正しくは丸2年通って3年目になるといったところだ。

医師は、「3年も病院に通うってすごいことだと思うんだけど。それだけ通い続けられるってあなたにとって良い場所?お母さんは別の病院を探してらっしゃるみたいだけど病院が変わってしまうことについてはどう感じるかな」というようなことを訊かれたと思う。

なのでわたしは、今年度の4月で主治医が異動になり、前の主治医は気が合って好きだったけど今の医者はあんまりなので病院が変わっても構わないと言った。

 

 ここからは医師によるわたしへの尋問が始まった。

どのお薬が好きか、と問われたので「コデイン系が好きです」と答えた。商品名だと何かな?と問われたので「トニンとブロンが好きです。あと、メジコン」と答えた。

「デキストロメトルファンか。コンタックの時からやってた?」と医師が言う。わたしはコンタックは飲んだことがない。

メジコンOTC化してからって感じかな」と医師が言うので、はいと答えた。

「飲み分けとかはあるのかな」

メジコンはより酩酊感が欲しい時に飲んで、トニンとブロンはつらい時に飲みます」

母親が隣にいる中薬を語るのは気持ちとしては憚られたが、わたしは救って欲しくてほとんどの質問に素直に答えてしまう。

「もしかしてレスタミンも好きだったりする?」

「いいえ、レスタミンは合わなくて好きじゃないです」

医師の口からレタスの名が出てくるとは思わなかったのでびっくりした。レタスが好きか尋ねたのは、レタスODは意識が急にシャットダウンしてしまうことがあるらしく事故に繋がることが多いから、という懸念から尋ねたらしい。

「処方薬だと何が好きかな?」

「ベンゾ系が好きです」

わたしの隣には知人のうつ病経験者から『ベンゾ系は悪』と刷り込まれた母が隣に座っている。

「ベンゾのどれが好きかな」

デパスアルプラゾラムです」

マイスリーは?」ここでも医者の口から自発的にこちらが話題にあげてない薬の名前が登場するのでびっくりしてしまう。まるでOD当事者のように知識がある。

「出してもらったことがないので……」

「良い病院だね」

「まあ……。気にはなるんですけどね」噂によるとマイスリーはたくさん飲むと目の前でパレードが開催されるらしい。実は一番飲んでみたい薬である。

デパスは何mgあったら一日足りる?」

「……5mgくらい欲しいです」

「今どのくらい処方されてるのかな」

「1mgです」

「それは0.5mgを2回みたいな感じ?」

「いいえ。一日一回1mgです」

「……それは、少ないよね。足りないよね」

「足りないって訴えてるんですけど、出してもらえません」

「訴えてるんだ……。依存症の本当に酷い人になると一日に何件も内科を回ってデパスをもらう人もいるからね」わたしだって保険証が手元にあれば病院をはしごするさ。(こういうところで、わたしが規制だらけな生活を送っているという情報を医師にお渡しできなかったのが悔しいな、って思う)

 

 他にもいくつか質問を繰り返し、医師は「たしかに薬物依存症ではあるかもしれませんが。今のところすごくコントロールしてお薬を飲めてるな、すごいなって思います」とわたしの現状を説明した。

「薬のことで娘さんと衝突したりするのはお母さまも苦しくないですか?」という医師の問いに母はまたも強い臨戦態勢の口調で「そんなことよりも身体が心配です。前みたいなことはもう……命が」と、答えた。数ヶ月前にベンゾODをしたところ解離を起こしその間に首を吊ってしまって救急搬送され入院していたことは、どんな脈絡で尋ねられたかは忘れたがこの目の前の医師にはお伝え済みであった。

「じゃあ日頃から死にたい気持ちがある?」

「はい」

「それはいつぐらいからかな」

「小学校6年生くらい……」

「明確な時期が出てくるということは、何か出来事があったのかな。……お薬をたくさん使う人の中には自傷行為だったり、過食嘔吐をしてしまう人も結構いるんだけどどうかしら?」この医師、やたらと『どうかしら?』もいうものの尋ね方をする。それが耳に焼き付いて離れなかった。物腰が柔らかく感じられる。

自傷行為はありますが過食嘔吐はないです」

自傷行為は何をいつからしてる?」

リストカットを。中学生の時からです」

自傷行為って最初は人に気づかれないようにやる人が多くて、だんだん派手になって見つかっちゃっておおごとになっちゃう人が多いんだけど、第3病棟さんはどうだったかな」

「最初は太ももにしてたんですけど。入院した時に自傷で手に引っ掻き傷を作ってしまって。そこから腕にするようになりました」

 

「今まで病院ではどのような診断を受けてきましたか」

「最初は……別のメンタルクリニックにかかってパニック発作を伴う嘔吐恐怖症と言われたんですけど、そのあと薬物乱用がみられて『うちでは診られません。入院施設のある病院へ』と言われて。今の病院に変わった時に一旦うつ病と診断されたんですけど今は躁転が見られたので双極性障害に名前が変わってます。あと、境界性パーソナリティ障害とも言われました」

パニック障害うつ病境界性パーソナリティ障害双極性障害の中で自分のことを表している病名だな、と一番感じるのはどれですか」

うつ病とボーダーです」

「どういうところがボーダー……境界性パーソナリティ障害だと感じる?」母に聞かれてもよくわからないように言葉を変えたのに訂正されてしまう。

確かに。自分では当時ボーダーの診断が降りたことに納得と安堵があったのに。どこがボーダーっぽいかと問われたらイマイチ、うまく説明できない。

「見捨てられ不安が強いと言われました」

うつ病になったきっかけは何かあるかな」

わたしは母が隣にいるが堂々と言ってやった。「両親の不仲です」

 

「お薬の飲み方についてはどう思ってるかな。必要な時には飲みながら、生活していきたいかな。それとももうスパッと辞めたい?」

「飲みながらが良いです」

 

 医師は、治療の手段の一つとして福岡市にある病院の名を上げてくれた。そこで入院して薬物依存症治療プログラムを受けてみること。

それから、薬物依存症とはまた別の病院でも良いので、双極性障害の治療を集中的にやっていくこと。

「僕だったらお薬を飲みながら生活を続けてもらって、徐々にお薬が手放せるようにならば良いね、って思うかな」と医師が言った。

「でも、今は主治医の指示で薬は全部親が管理していて、薬を買っても怒られるし」医師は薬を増やしてもくれないし、お金も親が管理しててそもそも買うのも困難だし。

 

母はわたしを精神保健福祉センターに通わせるつもりだったらしい。わたしもそのつもりでいた。

しかし、精神保健福祉センターは通うようなところではなく。大抵一度きりの相談を受け付けているという立ち位置にあるらしい。

母親は本日開催されている『薬物依存症の当事者の家族教室』みたいなものに参加するらしく「僕もいるので声かけてもらっても全然良いですよ」とは言ってくださったけれど。

母も帰り際に「良い人だったね。だいさんちゃんがお話ができる場所があれば良いなと思ったんだけど毎週とかは通えないんだね。ああいう先生が病院にいてくれたら良いのにね」と言っていた。精神科医(わたしの歴代主治医)を目の前にするとすぐに敵認定して身構えてしまう母も、この日話した医師は良い人にうつったらしかった。

 

 

帰宅したら、母親の懺悔が始まった。わたしが「両親の不仲でうつ病になった」と言ったのが刺さったのであろう。

「若くしてだいさんちゃんを産んでさ、その日から突然お母さんになって……」もうわたしの歳の頃にはわたしの母親はわたしを産んでいた。育児に追われ家事はワンオペ。実はモラハラ気質だった父への嫌悪感、そして不機嫌な態度をとっていると父が怯んで話しかけてこないことから防衛のためにヒステリックに振舞っていたことを語っていたが、わたしはいつも自分が計画された望まれた妊娠ではなく、デキ婚で授かった子どもであることに負い目を感じるのである。わたしさえいなければ母も狂わなかった。父も母に虐げられなかった。弟はもちろん生まれずに、面前DVなど受けなかったのに。

謝られてもわたしのうつ病は治らない。薬物依存も治らない。

 

なぜ主治医はガチガチに親の監視下で生活させようとしたのでしょうか

 わたしの苦しみの本質を理解してくれてないのかな、と思った。わたしの心のことで親に干渉されたくないのである。

 

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 サイレースデパスを飲まずにこっそり貯めてたのがバレた。

もうわたしは終わりです。人生を生きたくありません。

 

 退院の条件として、残っている薬はすべて処分すること、薬は親が管理すること、親の前で薬を飲むこと を提示され、これを承諾できないのならば退院はさせられないと当時の主治医(はるきゅん)に言われ泣く泣くこれを飲んだ。(はるきゅんのことはとても信頼していたが、この一方的に決められたわたしを追い詰めるような退院後の約束については恨みがある)

 

 母親の目を盗みつつ手の中にサイレースを隠し。デパスは朝食後に服薬なので、その時間はまだわたしは睡眠中なので。母が仕事へ出かけた後に食卓に置かれたデパスを回収し、溜め込んでいた。といってもサイレースデパス10錠ずつくらい。しかしこれを毎日一粒こつこつと貯めるのは大変であった。

 

 一昨日は母の監視の目をくぐりぬけることができずサイレースを手の中に隠していたことがバレてしまった。

「『頓服用』のデパスもテーブルに置いといて」と頼んだところ母は渋り「置いたらすぐ飲むやん」と文句を言われた。じゃあなんのための頓服なんだよ。

 

 

 過量服薬をしたら入院を考えましょう。

これも退院計画書に書かれたお約束だった。

金銭も退院後から医師の命令で親が管理。親はその存在に気づいてないが実はわたしにはタンス貯金があった。そこから市販薬をこっそり買ってはこっそり飲む生活。あまりラリってるのが表に分かりにくいトニンとブロンのタッグがお決まりだ。(本当はメジコンが好きなのだが、これを飲むと顔色が灰色になるのでバレた)

しかしこれもまた親にバレてみろ。何をされるか、何を言われるか分からない。

 

 昨夜もう食卓には『朝食後のデパス』は置かない、貯めるから。と親に宣告され、今朝は早速叩き起こされた。食事を食べさせられ(食べたくなどなかった)服薬させられた。

先日のデパスサイレース没収事件で希死念慮が高まっている。本当は頓服も飲みたかったが母はわたしが頓服を飲むことに渋い顔をする。デパス二錠を同時に服薬なんてさせてもらえないだろうな。

 

 

 

 

 このガチガチに親に縛られてODできない環境を作り出し、追い詰められたわたし。生きる気力がなくなった。はて、どうなってしまうのやら。

 

 

 

自殺失敗

 ただいま!

 

 救急病院と精神科と。通算4ヶ月半の入院生活が終わりました。これは長かった。

今回入院の運びとなった発端は、自殺に失敗したからである。それはもう、大失敗だった。あっぱれだ。自分の生命力には。

 

 10月17日にそれは起きた。事の発端がなんであったか、わからない。

わたしにはこの日の前後数日の記憶が、ごっそりない。

きっとベンゾジアゼピン系の薬を多量に飲んでしまったせいだ。

ツイートによれば、デパスを10錠、ワイパックスを5錠。そしてフルニトラゼパム3錠をストロングゼロで流し込んでいる。(薬までは分かるが、どこからストゼロが出てきたか分からない。わたしの家には、酒類は置いていないからだ)

本当はもっと飲んでいたかもしれない。この日のわたしの行動は、まずはいつもの精神科を訪ねて、(記憶がないのでこれは推測だが)「薬を飲んでしまった」と言って薬をねだった。ここでは薬をもらえただろう。それを道中でまた飲み漁ってる可能性も、あるかもしれない。わたしはその足で前に通っていたメンタルクリニックも訪れたようだが、おそらくここでは薬をもらってない。何度か薬をねだりに行ったことがあるが「処方は通ってる病院に任せて」といつも何も出してくれないからである。

そうしてこれもいつどこで仕入れてきたか謎なのだが、わたしはロープを持っていた。園芸用のロープである。

 

 「薬が効かない」と書き込みを残していたが、この時の記憶は健忘により一切ない。うろうろしているうちに、わたしは家の鍵をどこかへ落としたことに気がついた。「ああ、家に帰る資格がないんだ」と思い立ったであろうわたしは、知らぬうちにそのまま近所の公園に行った。わざわざやり方を調べて、ロープをもやい結びにして、公園の遊具に首をかけて吊った。

苦しみも怖さも痛みも、薬のせいで何も覚えちゃいなかった。

 

 しばらくして、わたしは通りすがりの人に発見された。その時には呼吸がなかった様子であった。救急搬送され、この事件で警察も動いた。わたしの心臓は、一度止まったと聞いた。

 

 救急病院に運ばれて、それから2〜3日わたしの目は覚めなかったようである。そのまま覚めなくてもよかったかもしれない。このまま目覚めなかったら、植物人間になっていたかもしれない、とはるきゅん(主治医)は言った。

しかし、わたしは目覚めてしまった。目覚めてからの数日も記憶がない。集中治療室にいたときのわたしは、見舞いに来た弟を、誰だか認識できなかったという。

 

 何が決め手で、自殺に踏み切ったのか、わたしにもよくわからない。薬でラリラリ(ツイートや他者へのメッセージのやりとりで、当人はラリってる感覚は全くなかった様子である)だったのと、お酒を一気に飲んだせいで、酩酊状態にあったのではないかとわたしは推測した。酔っ払ラリっているうちに突飛な行動をとってしまったのだと思う。

ただ一つ、あったのは。この日の前回の診察で「週に3回以上過量服薬があったら入院を考えましょう」と言われていた。10月17日は、その週に過量服薬をして3日目だった。ああ、これでは入院になってしまう。という焦りと絶望が、わたしを自殺へと誘ったのかもしれない。

 

 

 

 

 

躁転物語

 でもはるきゅん(主治医)はまだわたしをボーダーだっていう。

そうかも。ただの躁的防衛だったのかもよ。なんだか落ち着いてきた今になって思う。

 

 わたしがイエス・キリストになったその日(わたしが神さまになるまでのお話 - LOVEと死ねの狭間)、わたしはあまりの絶不調に、朝から病院に電話をかけた。この日は月曜日だったから、はるきゅんはいなかった。

その代わり、主治医の代替の先生に診ていただくことになった。

パジャマにスッピンノーブラで家を飛び出したわたしは、昨夜、フデコーの酩酊と激鬱のなかで考えていた物事を書き記した日記と、とある資料を携えて病院へ行った。

代替の先生は女医で、綺麗なお姉さんだった。

綺麗な女医は「何に一番困っていますか」を繰り返すだけで、この数日の嵐の夜のような荒れ狂った海の如き大波をたてしぶきをあげていた情緒のことは一切受け止めない、わたしの日記もまともに読み取らないで、妥当な薬だけを出した。わたしはつい、わたしの日記をただ眺めて返しただけの女医に「それでわかりましたか?」と尋ね煽るような口をきいてしまった。そして、こいつからなら薬を巻き上げられる、と余分な薬を「すべて飲んでしまった」と嘘を言って撒き上げた。イエスさまよ、このようなわたしをどうかお許しください。

 

わたしはこんなにたいへんなことなどはじめてて、とても動揺していたのだ。たまらず、わたしは待合室に戻ったあと、泣いてしまった。

薬局から一番近い座席で。

薬局には、以前の入院で仲良くなった薬剤師さんがいらっしゃった。その薬剤師に「よかった。先生がいた」とわたしは安堵した。そして「お話がしたいです」と申し出た。少し待つように言われたので、そこで、泣いてしまったのだ。

 

しばらくすると薬剤師がわたしのためにやって来てくれた。

わたしは「ここでは話せません。どこか、空いている部屋があればそこでお話ししたいです」と強く願った。そしたら、さっきの診察室に通された。もうあの女医の姿はなかった。

そして、女医がわたしの気持ちを受け止めてくれなかったことをつらつら文句を垂れ、薬剤師にも日記と、とある資料を見せていた。このとある資料は、前のメンタルクリニックに通っていた頃に、前の主治医に提出していた『報告日記』だった。主としては嘔吐恐怖症の治療のために世話になっていたが、時期に家庭のことも先生に報告するようになっていた。この資料には、わたしの母がこの時期にいかに、わたしに振舞ってきたかの記録がされてある。嫌な記憶すぎて、今のわたしにはもう思い出せないことだ。呼び起こしたくない記憶だから、わたしもこの資料を作成した2年余り、これを読み返したことがない。

薬剤師はわたしの気持ちをたくさん受け止めてくださった。そしてわたしの文章力を褒めた。やはり、フォロワー達のいう通り。わたしには一定の文章力というものがあるらしい。さすがおくすり界隈の村上春樹こと第3病棟である。

そして、薬剤師は病院の内情を話し始めた。

 

この病院では、この先生がいないときにはあの先生が対応する、といったようなタッグが決まっているらしいのだ。なので、主治医がいない的にはたいていその代替としてあの女医がわたしを診察することとなる。しかしながら、金曜日はあの女医の方がお休みであるため、はるきゅんがいないときの三番手であるのは、はるきゅんと昨年度までタッグだったベテランの先輩先生だということだった。だから、金曜日にまた来てみるようにと助言をもらった。

 

 わたしは精神病院を飛び出した。

病院の前のバス停からバスに乗った。わたしが目指したのは、わたしを以前突き放して追放したメンタルクリニックだった。まさか、ここにこのように戻ってくるとは思わなかった。自分でも。

わたしは意気揚々と訪れて、初診に混じって。診察を待った。一年半ぶりに、先生がわたしの名前を呼ぶ声が待合室に響いた。

「お久しぶりです」とわたしは挨拶をして、さっき病院で診てもらったが動揺が止まらずに、たまらずここまで来てしまったことを説明して、突然押しかけたことについて詫びた。先生はもちろん、わたしのことは覚えていたらしく。終始わたしの言葉に耳を傾けて物分かりが良かった。

この先生から見捨てられて病院を追放されてから、今の精神病院でどのような診断を下されて入院生活を過ごして治療をしてきたか、簡単にしゃべりつつ、先生にはわたしが持ち込んだ資料も目で見てもらっていた。

薬を寝だったが「投薬は他の病院が横槍入れるのはねぇ……。向こうの病院中心で考えて」と断られたが、先生はわたしの不安と焦りとを全て受け止めてくださって、「向こうでの治療頑張ってね」と言ってくださった。主治医との信頼関係が結べているのは、すごく良いことだと言ってくださった。

 

気持ちを聞いてもらって満足してしまったわたしは、そのままウキウキでメンクリ近くの職場に顔だけ出してやった。

「せんせいね、明日キティちゃんに会いに行くの。いいでしょ」とみんなに自慢してやったし、イエス・キリストになったわたしは教会の前で自撮りを撮ったりして帰ってきた。

 

 

 

 

で、この夜は弟が東京に内定が決まったと通知が電話にできた日であって、たまたまこちらに帰省していた弟を祝うパーティを突発的に開いたり、翌日には宣言通りにハーモニーランドに行ってはしゃいだ。全身にバッドばつ丸を身につけた。似てるだろうが。わたしの顔に。バッド第3病棟ちゃんだし。

大分から帰った翌日は地元の幼馴染達をマシンガントークでかきまわし、周りも元よりマシンガントークなので永遠にエンジンが入りっぱなし、翌日は友人の家で『悪魔のキッス』の配信ライブを鑑賞して、かてぃギャになりたいわたしは地元でもヘソを出してかてぃギャかぶれとなった。夜にはまた別の幼馴染に「お前はマジで嫌い」「家を燃やしてやる」「次に幼馴染全員が揃う時はわたしの葬式だな!わはは!!」と暴言を吐いてやった。幼馴染はすべて「こっわ」と冗談っぽく言いながらも許してくれて、わたしを叱らなかった。

元気なわたしを見せたかったんだよ。

この怒涛の躁的三日間は食事は一食分にも満たず、平均睡眠時間は一、二時間程度で、頭には絶えずばつ丸さまなりきりコーデのカチューシャを着けていた。自宅から徒歩十分圏内しか出歩かないのに。それでも、あたまにばつ丸の「ツンツン頭」を乗せ続けた。

 

 

 

そしてやってきた六日(金)で、わたしはようやくベテラン先生に会えて、躁の対処をしてもらった。この先生とは面と向かって話をするのははじめてだったが、いかんせんわたしはこの病院で目立ちすぎている。患者がほとんどジジババばかりなのでわたしのようなうら若き乙女は浮くのである。今日のファッションはまさにサンドリヨンと名付けてやらんばかりみすぼらしくもかわいい造形に仕上がった。無造作なヘアーにスッピン、畳まれた洗濯物のタワーの一番上にあったレトロで花柄のワンピースを頭からかぶったら、いたいけなドールのような少女が完成してしまった。

その姿でベテラン先生に会い、わたしがまさに、主治医が手を焼いている問題児の第3ですとご挨拶に参ったのであった。

 

「わたしのことなんとなくご存知ですよね?」と問うわたしに、ベテラン先生は まぁ……ちゃんとは知らないけど……ね、とバツが悪そうに答えた。

そしてわたしは取材には出したことのない声色と粗い語気と言葉のスピードで「躁に入ったかもしれません」と告げた。

あらかたのことをざっくりと伝えたところ、先生は、抗うつ剤の副作用で躁転したか、ほんとうに躁に入ったかの可能性も考えられると言った。しかし、わたしは鬱の期間が長すぎて、このように、躁のビッグ・バンが起きてしまったと憔悴して病院をあちこち駆け巡っていたが、ベテラン先生の目に映るわたしはさほど強い躁でもなく、いわゆる『軽躁』程度に見えると言われた。

何が一番怖いですかと尋ねられて、わたしは、「ボーダーの人を操作してやろうという意欲と、躁のエネルギーがぶつかった時がこわいです」と述べた。そう、こんな風にね。

わたしはワンピースの右袖をたくし上げて「わたしの腕は、主治医が思い悩むほど、そんなにひどいですか」と言ってベテラン医師に泣きついた。医師は、「僕たちは見慣れてるから。一般の人が見たら驚くとは思うけどね」と答えた。違うんだ、先生の主観での評価が欲しかったんだよ。

ベテラン先生は、感情が溢れて涙するわたしを見て「躁の人も(まるでうつの人のように激しい感情に突き動かされて)泣くからね。今すぐ判断するには難しいね」と言った。

 

わたしは、この涙に対する説明をはじめた。

ほんとうは主治医に早く会いたいのだ。このわたしの身に起こった緊急事態を知らせて、それはたいへんな思いをしたね、と受け止めて対処してほしいのだ。しかし、それが無理だから。ともあれベテラン医師に伝えたいことが上手くに伝わって、これは、安堵の涙をわたしは流したのだ。

そうしたら、ベテラン医師は「主治医はあなたのこれまでの対人関係での傷つきをすべて受容している。でもあなたの依存が強すぎて、がばっとあなたを彼がおんぶしている状態」と表現した。

わたしは「そうです」と認めた。

「そうなんです。それを(はるきゅん)先生は、そっと爪先から下ろそう下ろそうとしてくださってるんですけど。『なかなか離れないね』って。いつも言われてるんです。わたしは、早く自分の足で立ちたいんです」と泣いた。わたしは問題児だ。主治医はわたしを『いい子だよ、いい子だよ』といつも言うけれど、主治医にとってほんとうの意味での"良い子"にはやくなりたいんだ、と決死の思いを涙を流しながらベテラン医師に伝えた。

わたしのことがかなり健気に映ったらしく「あなたの彼のために、治りたいという意思はよく伝わってきました」と評価された。今は、主治医との分離を頑張る試練の時だと言われた。メンクリの医者に同じくである。

 

 

 

ここまでがわたしの爆走躁転日記の顛末である。

先日、やっと主治医に会うことができて、ここまでの資料を突きつけた。

主治医はわたしを「躁状態」とは言わなかった。躁的防衛。君はボーダーだよ、と主治医はずっとわたしに唱えた。

先生の言う通りかも、だって今、鬱だもん。

 

覚悟しておけ。来週の診察室では親の悪口を二人で言い合おうな。うちの親とバトっちまった主治医よ。(※わたしの親が沸点低いイラチなだけですよ。もちろんね)