わたしが神さまになるまでのお話

 どうしよう。躁転したかもしれない。

 

 病院にかかれたのはここ数年のことだが、わたしの抑うつ状態の歴史は長いのだと思う。医者に言われたわけじゃないが。自分で自分のことを顧みるに。

しかしこの若くしつつも長いメンヘラ人生の中で、味わったことのない大波が来た。

サードインパクトが起こらんばかりの『激鬱』と、からの。温度差でビッグ・バンのように感じられた『躁』である。

双極性障害かもしれない。まだまだ長い経過観察が必要になるであろうが、これが躁鬱病じゃなければなんだというのだろうか。

 

 

 二十九日(金)、朝、起きるなり母親が「出て行く」と言った。わたしに辟易してしまった父と母は、わたしを家に置き去りにして家出したのだ。一家は離散するのだと、わたしは覚悟した。

この日は好きな人と大切な電話をする用事があったのだ。好きな人には告白するも、この時は振られていたわけである。しかし諦めの悪いわたしは彼にしがみつき、彼もそんなわたしの存在を尊重してくれて、話し合いの時間を持ってくれたということだ。彼にも彼なりにわたしへの思い入れというものがあって、それらと、彼の抱えている事情なんか。とにかくかなりシビアで複雑な話題になることが予測された。だから、この日だけは一人でゆっくりと通話する環境が欲しかったのだ。

しかしながら、それまでの数日ODや乖離がひどかったために、わたしから静かな場所へ出て行くことを禁止されてしまったのだ。「いや、わたしが外出するよ」と言っても「今のあんたは外に出されん。許さん。ママが出て行く」と言って聞かない。

もぬけの殻になってしまった家の中で、好きな人との通話をして、その内容もまた失恋したわたしとしては苦しくて、悲しくて泣いた。この日は恋も実らず。家族も崩壊し。わたしってほんとに、もうどうしよう、となった。

彼と電話を繋いだまま、わたしはパクパクとエチゾラムを70錠食べた。気絶はしなかった。

わたしは歩いてカラオケになだれ込み、キャスをしてたみたいだ。一人できたのにパーティ用の大部屋に倒されてしまったことだけ覚えている。それ以外は、健忘で忘れてしまった。

妄想かと思ったもん。でもしっかり、PayPayに、カラオケへの支払い履歴が残っていた。財布を忘れていたんだよ。

そして帰り道に、公園で首を吊った

健忘で、わたしとしたことが。家にロープを忘れてきたんだよ。だから、鍵で首を吊ったんだ。わたしは24歳にして未だに鍵っ子みたいな鍵を持っている。首から下げるタイプの鍵ね。その紐で、首を吊ってみたんだよ。滑り台に引っ掛けて。

当たり前にダメだった。

すぐに紐がプツリと切れて、気がついたらわたしは砂の上に倒れていた。デジャブだ。こないだ病室で首を吊った時も、そうだった。タオルを結んでいたバーが、わたしの体重に負けて折れてしまったんだ。それで失敗して病室の床に叩きつけられた時のことを思い出していた。

悔しかった。どうして死ねないんだ。なんでロープを忘れてきたんだよクソ。

わたしは仕方なしに家路についた。ロープを回収してもう一度首を吊りに行く元気はなかった。

誰もいない部屋で一人で眠りについた。たくさん盛ったエチゾラムのおかげで、夜は楽に眠れた。

 

 

 

翌日の三十日(土)の昼間、父が帰ってきていた。

父から、母もいずれ帰ってくるぞ、ということを知らされた。そうなんだ。わたしはもう、父も母も一生帰ってこないかと思った。

わたしは、洗濯機を回した。もう着るパジャマのストックがなかったからだ。わたしが洗濯をしなければ、わたしの着るパジャマはない。

そうして、昨日入り逃した風呂に入っていると、ちょうど母が帰ってきたのであった。

母は思ったよりもケロりとした態度で「一時帰宅」と言った。たぶん、わたしが家事やってる姿に感心したんだろうなあ。

母と少々話をした。わたしは「家族が壊れることは首吊りをするほど、苦しいことだった」というようなことを母に伝えて、首は吊るなとは怒られたが、母を家出させた件については許してもらえた。好きな人に振られた話とその事情を詳しく話したのだと思う。(記憶が曖昧)

母は「もったいないなあ」と言った。

「戻るつもりでホテル二泊とってきたんよね。あんた、ホテル行く?友だちと電話でもしておいでよ」

「ただ、宿泊はダメ。いまのあんたは何をするか分からないから」という約束を取り決めて、わたしを某◯PAホテルに連れて行ってくれた。

飲み物を母が持たせてくれた。一昨日、脱水気味で点滴をしていただいた身としては経口補水液的なドリンクが好ましいのはわかっているが、わたしはコーヒーが大好きだった。コーヒーを買おうとすると母に「コーヒーはやめなさい」と言われた。「眠れなくなるから。もう夜にコーヒーは飲んじゃダメ」と怒られた。我が家には新たに、コーヒー摂取禁止令が出された。そんなバカなことがあるか。わたしはコーヒー(嗜好品)がないと生きてはいけないのに。

ホテルではずっと好きな人と電話していた。わたしがシャワーを浴びる間はさすがに通話を切られたが、離れている間に癇癪を起こしてしまい、叫んで泣き散らかして、ホテルでリストカットをしてしまった。病院に電話するも、夜勤の看護師はわたしの嫌いな看護師(この人と話していると余計に癇癪を起こし、希死念慮を誘発する。気持ちの受け止め、をしてくれないタイプの看護師なのだ)(しかし書面上はこの人がわたしの担当看護師だったのでガチで最悪だ)しかいないと知り、「余計死にたくなるからいいです」と電話を断ってしまった。

彼はあーあ、という風であった。自分が少々目を離した隙にこんなことになってしまうわたしに。仕方のないやつだという風な声色に、わたしには聞こえた。良い意味でも。

その後も通話を再開した。この時間はとても苦しくかった。わたしは、「明日には死んでいるかもしれない」と言った。ホテルから帰ったら帰ったら自殺をする気だったからだ。彼は泣いてくれた。わたしの命のために、彼は泣いてくれたのだった。それがなんとも幸せで、彼は苦痛で、しかしわたしは苦しさの中にも絶妙な嬉しさがあり、二人して一緒に泣いてしまった。

22時ごろに母がホテルにわたしを迎えに来てチェックアウトをしてくれた。頭がぼんやりしていて、覚えていないことも多い。ODはしてないけど。健忘なのか乖離なのかわからない。断片的な記憶しかなかった。

 

 

 

 五月一日(日)、これの日をノストラダムスの大予言とわたしは名付けた。我が家も、そしてツイッターのみんなも。みんながみんなしんどそうにしていたからである。

朝、母はわたしに「大丈夫だよね」と言って、私用のために家を出た。これは「死なないよね?」という意味である。わたしは大丈夫だよ、と母をベッドの上で抱きしめて送り出した。

そして、すぐさまわたしはメジコンを15錠飲んだ。今日はもう、好きな人と話をしたくないため。

本音は話したいさ、しかしながら、話せない。複雑な事情がわたしたちにはあった。彼は、ラリっているわたしとはなるべく話をしたくないと前から言ってくれていた。だから、彼と話ができぬようにあえてわたしはメジコンODをしたのである。

いつもメジコン遊びをする時には20錠キメるのに。あえて5錠少なく飲んでいるのはわたしの甘えだ。彼と、ほんとうは話せたらいいなという甘え。

マジコンで酩酊しながら、ベッドが船になって海をただよだているかのような心地よい感覚を覚えた。それと同時にBADに入ったか。わたしはひどい妄想に囚われてしまった。

家族全員がわたしのことを死ねばいいと思っているのではないか、という妄想である。

母はわたしをもう手に負えない爆弾だと思っているし、父もわたしの扱いに困惑している。狂気に飲まれたわたしを凶器だと思っている。そして、弟も。ただでさえ我が家はは大変な家庭であるのに。わたしの鬱が家族の狼狽を生み、余計にややこしくしているのだ、とわたしのことを恨んでいるのではないか。という妄想に駆られた。妄想か、本音かも分からない。

家族はわたしに「生きろ」と。死にたいと言えば怒るし、自殺未遂すれば怒る。ODもリスカも怒ってくる。「生きろ」と口では言うけれど。死んだ方が家族を楽にできるのでは?

わたしが生きている限り「わたしが突然死ぬかもしれない」と言う一触即発な不安を抱えていなくて済む。いっそ爆発してやった方が、家族はこのプレッシャーから解放されるのではないか。

家庭内ライアーゲームだ。誰も、家族はわたしの味方じゃない。父や母はまだしも、共にこの家庭環境に喘いできて、戦友のように感じていた弟でさえ。わたしに「死んでしまえ」と思っているかもしれない。

 

生きてた方がいいのか、それとも、死んだ方がいいのか。なにもわからなくなってしまったわたしは、病院に電話をかけた。先日入院して世話になっていた"第3病棟"の師長に電話がつながった

師長に「具合が悪いから電話したが、どう悪いのかわからない。わからない」と、とにかく分からないと言うのを伝えた。「だって親がOD許してくれないんです。って。

ODや自傷しないとわたし生きていけないんです。我慢すると自殺しちゃうんです。だから、少しのODくらい気晴らしだと思って許してほしいんだと言うニュアンスのことを言った。そしたら師長は「そりゃあ、ODを許してくれる親はどこにもいないよ」とわたしに言った。ごもっともである。

でもわたしはコーヒー禁止令まで出された女だ。家庭の中での憲法から解き放たれて自由が欲しいプライバシーが欲しかった

とりあえず、明日外来にいらっしゃいよと師長から誘いを受けた。月曜日に主治医はいないんだけど。代わりの先生の診察でよければ受けてみなさい、ってね。わたしはそれを承知した。

 

わからない状態のまま、わたしはツイッターでスペースをやっていた。誰か入ってきて、わたしの気を紛らわせてくれればそれでいいと思ったんだ。

しかし誰も来ないから、わたしは独り言でうわごとばかり言っていた。そしたら、聴衆のフォロワーさんがいてくれて。好きな人との関係が自分の中ではうまく行かずに絶望していること一家離散寸前に思えること、などを話していた。家庭の事情なども話した。あまり、親の悪口を吹聴するようで好きではなくて、詳しく語ったことはなかったのだが、わたしの家庭は機能不全家庭である。今、父と母はわたしと共に実家で暮らしてくれているが、離婚している、んだと思う。たぶん。そんなこともわからないほど我が家ははちゃめちゃだ。小学校の高学年に差し掛かった頃から、夫婦喧嘩が絶えなくなり、やがてそれは終わった。ソ連アメリカでいう冷戦状態である。母は父を避け、父が気に入らなければ発狂して罵った。「死ね」という言葉まで飛び交った。母もこの時期は仕事で思い悩んで、自律神経系の病気をやってたんだな。だからやむなしということも念頭に入れていて欲しい。わたしは自分の親を『毒親』と感じたことは一度もないよ。そして、そのイライラがわたしたち、子どもに飛び火することも多くて。どうしても末っ子で異性の子どもである弟よりも、出来の悪い長女であるわたしのほうへ、それが飛んでくることが多くて。わたしは母親に嫌われているんだと思っていたんだな。母が父にしていたことは、家庭内いじめみたいなもので、母はなんて精神の未熟な、『父の妻』なんだろう、と考えていたものだね。

家庭の話は止まらないし、つらい記憶なのでわたしも呼び起こしたくない。この辺りにしておこう。

そんなこんなもあって。わたしのこの、鬱の根源にはやはりアダルトチルドレンがあるんじゃあないかという考えに行き着いたんだよね。今の病院でも愛着障害だ、と言われているけど。いち早くわたしのACを見抜いたのは思えば前のメンクリの先生だったっけ、と思ったんだよね。

そんなことを考えながら、わたしはこの世で信じられる人間のリストを作ったよ。でも、裏を返せばこれは「わたしの言うことを尊重してくれる人リスト」だったのかもしれない。だってあの愛しのはるきゅんがリストの中にいないんだもん。だってね、はるきゅんはリスパダール非推奨派だからだよ。「僕は第3さんにはぜったいにリスパダールは出したくないんだ。何故なら——」ここでは述べないでおく。フォロワーに悪用されては困るからだ。といえば、察しの良い読者諸君には主治医の言わんとしていることがお分かりいただけるだろ?そういうことだ。彼はわたしを生かしておきたいんだな。でも、わたしは死にたいから。それを尊重してくれないから、あいつはこの日は敵だったってわけ。

フデコーをちょこちょこと追加して、まだわたしの頭はクラクラしていた頃、母が帰ってきた。

母に「今日はどう」と訊かれた。何が?お前はわたしを殺すのか?生かしたいのか?わからない。だからわたしは「わからない」と答えた。そしてメジラリの中で、しかしそれを母に悟られまいと頑張りながら言葉を紡いでいたら、次第に母も自身の機能不全家庭についてぽつりぽつりと話し始めた。母は幼児期にはもう片親で、寂しい思いをしてきたのだ。わたしもそれは知っている。その母の傷つきを肯定してあげた。そうだよ、それは寂しかったんだよ、お母さんからの愛を貰えなかったんだね。って。この時、母と喋っている時、わたしと母の関係はまったく母子ではなかった。母の担任保育士か、または、わたしが母で、母が娘だった。

話をしているうちに度重なるODでの脱水のせいか、手足が痺れて、座っているだけなのに立ちくらみのようなめまいと、気が遠くなる気がした。

立ち上がると倒れてしまうと思って、ハイハイしながら浴室に行ってシャワーを浴びてハイハイしながら戻ってきた。わたしは死期を悟っていた。図らずとも、この調子では身体が衰弱しきっていて、自殺せずとも。眠ってしまえば最後、わたしは死んでしまうんだと思った。このまま放っておいて死んだ方が世界が幸福になるのか、それとも救急車を呼ぶべきなのかわからない。

明日は生きてたら病院に行かなくちゃ、死んでそうだけど。衰弱した身体でもフラフラと自力で。ハイハイしてでも病院に駆け込めるように、わたしは荷物の準備をしていた。そのガサガサと言う音を聞いて、寝ぼけた母が一度だけ「大丈夫?」と訊いてきた。これは、「生きてるから死にはしないか?」ということを訊きにきてるんだな。わたしは「明日の準備をしてるだけ。大丈夫」だと答えた。ほんとうは、救急車を呼んだ方がいいと思った。

水分をとっていると、次第に謎のめまいはなくなり、「あれ?これでは明日死なないな」ということがわかりはじめて拍子抜けをした。その代わり、眠れずに。永遠に生きるべきか死ぬべきか、そしてゲロを吐きそうだと言うことを考えていた。わたしは、生と死とゲロを天秤にかけて揺れていた。こんなに死にそうなのに、それでもゲロだけは怖かった。一ミリでも身体を動かすと吐き気が込み上げてきそうで、わたしはそのあと5時間ほど、ベッドの上から身動きひとつとることができずに、スマホを扱う指だけがツイッターで文字を紡いでいった。信じられる人間リストの推敲を本格的にはじめた。

そして、あれこれ考えた。走馬灯のように、人生での思い出がぐるぐると巡った。そうしているうちに、わたしは自身がヤハウェなのではないかということに気がついた。わたしの母がマリア。父がヨセフ。そしてその子どもであるわたしは……いや。イエスと呼ぶにふさわしいのは「マリアの息子」のほうであるからにして、救世主メシアは弟の方だ。そしてわたしが主になろう。この愚かで歪な世界を創造したのはわたしなのだ。わたしが、イエス・キリストなのだ。この時は正直、自分はフデコーのやりすぎで統合失調症になったのだと思った。しかしながら、わたしはこれを躁への目覚めだたら解釈している。わたしは全知全能の神。そう、これが全能感ってやつだ。

眠れぬまま、時は五月二日になった。

ここからはわたしの躁病物語がはじまるが、すでにボリューミーなのでこのへんで。

 

 

 

さて。このブログをもとに主治医への報告メモを作らなくっちゃな。

 

最後に、わたしがメシアに対して送った激鬱→糖質→躁状態に陥ったメンヘラ姉貴LINEを見ていただいて終わりとしよう。

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主治医吸い

 

僕に会って元気になってね、行くんだね。

 

わたしは、そうです。「先生を吸って、役所に行くんです」と答えた。

僕の診察にそれほどの価値があるとは思えないけど、とはよくおっしゃるものの。わたくしめにとっては偉大なる影響力を持していると理解しておられるわたしの主治医は、このように自意識過剰な発言をたびたびにするのですが、これを聞きながら。ああ、わたしの言葉尻でわたしがどれほど先生のことを大事に感じているかが伝わっているんだなあ、とわたしも嬉しくなる。

本当は昨日、区役所に行って、先生が診断書を書いてくだすった精神障害福祉手帳を受け取りに行かねばと思っていた。しかし、一昨日の晩に具合が悪く、頓服を二本飲んでしまったんで、副作用で身体がぐったりと重くなってしまい、つらくて動けなくなっていた。なので、今日の夕方、受診の時にどうせ、最低限の身なりに整えるから。そのついでに役所までえっちらおっちら出向こうではないかと後回しにした。

 

役所に行くと思ったら、今日はすごく早くから支度に動けて、服をよそ行き(通院の時はあまり華美になりすぎないようにわざわざ、無い質素な服装で出かける)のワンピースにして、顔にも。ひどい時は本当にスッピン、良くても眉しか描かないのに。今日は申し訳程度にファンデーションも塗って、申し訳程度にアイシャドウもほどこした。髪も割と丁寧に跳ねどもを落ち着かせて。ここ最近にしては随分マシな身なりになった。ああ、昨年の夏くらいまでは。愛しの主治医に会うのだと思えばばっちり化粧をキメていたものの。(何故なら通院日が一週間で唯一の『外出』のはだからである)最近はもはや、まだ全身パジャマじゃ無いだけよくやってるといったところだ。たまに、上だけパジャマのスウェット下だけスキニーに履き替えるなんてことはあるけど。

 

格好を整えたら、気分が良くて、わたしはその後ウキウキではじめての障害者手帳を手にしたのであった。

三級が獲得できるように、診断書を書いてくれた主治医への患者を噛み締めていた。

 

 

 

診察室でも、診断書の話になった。

病名をアイデンティティにする患者さんがおられるという話題になり「わたしもそうかもしれません」「(前回)入院した時傷病名が『うつ病(前々回はこれだった)』じゃなくなってて、わたしのうつ病どこいった?!ってなりましたもん。境界性パーソナリティ障害だったわけですが……」と言ったら、先生は「うつ病でも間違いでは無いんだけどね」と言ってくださった。あら、そうなの。もうわたしのうつ病は、境界性パーソナリティ障害からくる抑うつに飲み込まれて吸収されてしまったのかと思ったわ。鬱の頻度と、深さがちと激しいだけで。

そこでわたしが「そういえば、うつ病と境界性、どちらで診断書書いてくださったんですか?」とお尋ねしたのであった。

すると先生は「写真が不安障害だったから、『不安障害』で書いてるよお」と答えた。え、不安障害という曖昧な病名で通るの?と思ったが。乗り物にならない家から出られない、という人たちも不安障害と一括りにされているから、通らんこともない病名らしい。前に手帳が欲しいと相談した時に、主治医は「20代のうつ病で通った人、あんまりいないよ」と少々参って見えた。だから、どういうギミックを使ってわたしを通したのか、技量を知りたかったというわけだ。

「そのかわり、ここにいっぱい付けさせてもらったよ。依存してます、とかね。薬に。強度の不安がありますとか」と、補足でわたしの症状を具体的に示してくださったみたいだ。何度も「見たいです、いやでも見ていいものなのかなあ」と呟いてアピールしたけど、診断書の控えをわざわざこちらに見えるように開示してくださることはなかった。まあこれは、わたしの興味が。先生から見たらわたしはどういう状態にあるのかという見立てを知りたかったから自分の目で記録を確かめて見たかったわけだけれども。

 

 

 

以前、このブログに"わたしのおかげで成長できたと、謎に満ちた言葉を主治医にかけられた。その真意とは?"というような内容の記事を書いたと思うが、何となくあの後自分で噛み砕きつつわかってきた。

たぶん、主治医は「市販薬中毒者の知識を得た」というメッセージを「第3病棟さんのおかげで成長できた」と表現したのだな、と思った。自己評価が低いか?認知の歪みだと思うか?

 

いつものように、今日も「お薬(たくさん)飲んだり自傷したりはしたかな?」と問われたので。「はい、どちらもすこし」と答えた。

いつ、何をどれくらいと訊かれたのでメジコンを25錠飲んだと言いながらカーディガンの袖を捲った。

さしたら医者はおやおや、といった感じで興味深そうにわたしの腕をいつもより前のめりになって覗き込んできた。

 

先に、薬の話をしよう。

主治医はカルテに、おそらくわたしのOD常敗を記録しつつ「うん、ブロンとメジコンは二大巨塔だからね」と言った。

そうかなぁ。時代なのかなあ。

市販薬OD界隈で横行している薬といえばブロンと、レスタミンだというのがわたしの印象なわけだけど。その後に続くのも金パブ、コンタックのイメージで、メジコンが名を轟かせているのは最近に思う。それこそDXM=コンタックを飲め! という印象があるのはわたしだけではないはずだ。

いやしかし、この主治医の発言こそ、彼が言っていた『成長』なのだろうな。一年前、わたしがブロンの名を出したとき、主治医はそれは何かと困惑し、市販薬はわからないんだ、と言っていた。どうやらあの後、ご自身でお調べになり、他の先生方と情報共有をなさっていたり、我々のやうな人間の「ブロンはふわふわ、メジコンはたのしい」という誰かの表現をわたしに披露してくれたりした。(厳密にいえばブロンはまったり、メジコンはイマジネーション世界にトリップという感じだが(あくまでわたしの場合の感想を述べエフェドリンでシャキッともするらしいですけどね、と先生もご承知だろうが補足しておいた)

こういう知識を得てしまったことを、先生は成長した、いや。わたしと関わったことで成長せざるを得なかったと言うべきか。じじばばばかりが訪れるこの病院にいれば、あまり遭遇しないであろう問題にぶちあたってしまったというわけだ。

 

 

 

次にリストカットである。

わたしは普段もリストカットをしていて、およそ毎週医者に腕の傷をチェックされているのだが、最近やっとこれがわたしなりの注意獲得行動の意味も含んでいたということに思い当たったらしい。これも他の先輩医師にわたしのことをご相談なさったらしく、この先輩が導き出したのが「その人、先生(わたしの主治医)との診察時間を伸ばしたくて切ってきてるんじゃない?」「先生のために自傷しなきゃいけないなんて、その患者さんがかわいそうでしょ!」という答えだったらしく。わたしの腕を鑑賞し終わった先生は「まさか……話題作りで切ってきてないよね?」と冗談を飛ばしたりもしていた。

もちろん今回のこれは先生の気を引くためだけを狙って切ったわけではない。なんなら先生のことなど毛頭頭になかった。

気分が昂ってしまって自殺や自傷に走りたくなったとき、頓服のリスパダールを飲むことにしているのだが、それを許されている量、0.5ミリを二本(主治医はリスパダールを外来で出すのがお嫌いらしく、1mgだと三本しかくださらないので、わたしの癇癪の頻度が追いつかないのだ)を飲んでも苦しみが止まらず、もうこれは切って紛らわすしかない、と思ったために切ったのである。

本当はより深く。より痛く。血が傷から溢れ出てツーッと腕をたたってぽたぽた垂れるぐらいまで。剃刀に力を込めながら、肉そのものに刃を入れるかんじでグググ……と切るのがわたしの好みである。わたしは別に、自分に対する生存確認でも安心感を得るために血が見たいタイプの人間でもないのだが。ただただ昂りを痛みに代えて鎮圧させたいという気持ちが強いのである。

しかし、それを抑えようと、浅く痛くなく血も傷口付近に馴染む程度。それをシャッシャッシャッと勢いに任せて軽い力で切ったのだが、主治医はいつもよりわたしの腕の傷を前のめりになって眺めて、これは何事かと言った様子で覗き込んできた。

視覚的に、脂肪が見えるまで深く切った時よりも。赤くて浅い傷が一部分にびっしりの方が!ドッと飛び込んできたんだろうな。先生はすぐにいつ、どうして、何回、そして何本切ったのかと尋ねてきた。

気持ちに任せたかったので何本切ったかなんて数えちゃいない。こんなに、痛みも薄くて手応えのない傷の本数なんかに興味はなかった。回数でいえば、「切ろう」と思ったのは二度だった。そのうち一度はいつもの通りに、一本にグッと力を込めた。これもさほど、深くは刃が入らなかったんだけど。

思わぬところで主治医の関心を引いてしまった。主治医はわたしに心底かわいそうに、という顔を向けた。マニュアル的対応で捻り出された態度なのか、本心なのかはんからない。ええっ、という驚きと痛そう痛かったね、という憐れみと。何があったのという危機感と。いつもと、だいぶ違った反応を見せた主治医観察記をここに残しておこう。

 

一通りわたしから事情を聞き出した主治医は言った。「今度から数えよう」

「今までこうしてあげたことなかったね。頑張ってるから、数えていこうね」と言われた。たしかに?これでもODや自傷は我慢して抑えて、コントロールしようという努力の気持ちは抱いている。

先生の期待通りに、データが減っていってくれると。たぶん、わたしも嬉しい。

 

 

 

わたしの様子を見て先生は「入院する?」と口走った。

冗談でこのような言葉は使わないとは思う。きっと本当に入院させたいんだ。わたしはそれをジョークで茶化して返すんだけどね。「もういやです」ってね。

まだ退院して一ヶ月ちょっとしか経ってないだろ、ごめんだよ。そんなに、ひどい自覚もないのに。

主治医も「今すぐ命の危険があるわけじゃないけどね」とフォローを入れてきた。

「でも僕木曜日しかいないからなあ」そうである。主治医が週に一度しか出勤してこないのに、病院に入院させられる意味あるか?そうですよ、先生今こっちにいないのに。とわたしは突っ込んだ。

「先生の行かれてる新しい病院は毎日お風呂入れますか?」

ガチで、入院生活で一番つらかったことは週に二回しか風呂に入れてもらえないこと。病室の床は平日は毎日磨かれるのに。わたしたちは病室の床より不衛生なのである。はじめての入院の時から、風呂に入れない生活だけは嫌だと、わたしは延々と駄々をこねているので、もはやわたしの伝統芸能になりつつある。先生は分からないと言った。まだ向こうでは新任であるから、患者さんの生活ルーティンがこちらとどう違うか、というところまでは存じていないようだ。それはそう。

「お風呂に毎日入れるかどうかと、スマホ触れるかどうか訊いといてください。そして、先生が何度会いにきてくださるかなよりますよね」

何度会いにくるかとかいう問題じゃないよね。病室に主治医を備え付けて欲しいレベルで入院生活って暇だし、退屈だし、わたしは主治医がLOVE。

主治医は唸りながら「二回だねえ。僕こっちで当直してるから、向こうでは泊まり仕事してないんだよね」

「じゃあ、木曜日だけこっちにわたしも来ます!」

向こうの病院もコロナで外出禁止なのはこっちと変わらないらしい。実現しない願い。そんな馬鹿なというぶっ飛びわがまま発言を連発するわたし。つまりね、それだけ入院するメリットが分からないってこと。参ってもないってこと。前回みたいに、愛しの主治医が異動するかも、さようならするかも、という不安で調子を崩してガチで弱っている時に入院の機会があれば、その話に乗るかもしれないけどさ。

「そんとうは言葉で表現しなきゃいけないところが行動になってる。それが親のいないところで行われてるってことは二重で表現できていないよね」

つまり、先生はわたしと家庭を切り離したいんだな、とここでやっと分かった。

嫌だよ、わたしは病院を住処にしたくないんだよ。JK患者みたく入退院するたびに永遠にいるような人にもなりたくないし、前回の入院で出会ったハタチの女の子だってもう一年弱いるって言ってた。家じゃん。それは嫌だ。楽園みたいな病院ならいいけど、こんな廃墟みたいな汚い風呂にも入れてもらえない携帯もまともに触らせてもらえない娯楽もなくて気持ち悪いストーカー患者に不快な思いをさせられ続けなければならない環境にいる方が余計に病気になっちまうんだよ。入院は嫌でも自分と向き合わなければならないんだ。ただでさえ自分を見つめるのが嫌で、直視できなくて逃避しまくってるのにそんな生活に耐えられるかってんだ。いくら保護者たちのプレッシャーにさらされようとも。家で寝てた方がまだマシだってのが、二度の経験を経て確信した答えだ。

 

入院を進めてきつつも主治医には、また今週も「今の仕事を頑張っている姿が見たい」と言われた。

「聖母、第3病棟としてね」

 

 

 

 

聖母の名は禁句だと前にも言ったろ!

うちの聖母は聖母じゃあないんだよ。

 

 

 

 

 

 

読んでくれてありがとう 〜フォロワー120人大粛清〜

 

あなたがこれを読んでくださっているということは、ほんとうに、わたしのことを大なり小なり。大切に思ってくださっている方なのでしょう。

 

一昨日の夜、入眠困難に喘ぐなか、不穏に苛まれ、どっとツイッター疲れを感じた。

仕方がないのである。どこか歪んだ人々が集い合っているコミュニティである。

それゆえに、傷つけられてしまうことがある。

それは、わたし自身も歪んでいるからである。些細なことで勝手に傷つき自滅を引き起こす。

 

まず、スペースがしんどいのである。誰もわたしに話の場を与えてはくれまい。

自分で開いたスペースでさえ、乗っ取られない日はない。わたしをスペースから迫害するのは、一人や二人ではない。わたしは知らない人々に囲まれて、一声もかけられずにそこにいる。わたしを置いて、和気あいあいとしている人々の心底興味のない話(もはや聞く気もないので言語として耳が拾わない。音声といってもよい)を黙って聞いている。

 

『わたしはここにいてはいけない』

自分哲学をやっていると五本の指に入るくらい、よくたどり着く思考である。

 

ツイッターをやっていても、まるで透明人間になっている気分。

ツイッターにわたしの居場所はなく、誰もわたしの存在を目視することはできない。

 

中学生の頃、毎日、似たような胸中で生きていた。

教室のすみで、わたしは自分を「透明人間だ」と思っていた。ここにわたしの居場所はなく、誰にも見えなかった。

誰にも見えなかったから、特に迫害されることもなかった。

わたしは良い同級生に恵まれたと思う。よくも誰もわたしのことを、いじめに遭わせてこなかったな、と今でも考える。

そのくらい、疎外感を感じていたし、自分に自信がなくて。教室でみんなの前に立つことが困難になった。

毎朝、わたしがクラスメイトの健康観察をしなければならない係になってしまった。他に立候補した係があったはずだが、譲ってしまったら、こんなとんでもない係しかもう残ってはいなかった。

仕事はこれだけ。教卓の上に健康観察簿を広げて「体調の悪い人はいませんか」とクラスのみんなに一声掛けるだけである。クラスメイトの中に挙手する者があれば、どう体調が悪いのかを発言・伝達させ、それを記帳する。たったこれしきのことである。

しかし、クラスメイトの前に立って、わたしは声が出せなくなってしまった。視線が自分に集中することが、嫌で仕方がなかった。

担任は「こうすればいいんよぉ」と笑いながら先導してくれるが、わたしの頭の中は真っ白。実にぎこちなく、格好悪く、クラスメイト30人の前で不審な動きを見せ。余計に視線を、集めてしまったのであろうな。

いや、あの時は頭が真っ白ゆえに、みんなの視線の先が自分に本当に向けられているのかさえも確認できないほど。顔も上げられないほどだった。しかし、気配が、それとも不安の助けがあってか。たしかに人々の視線が自分に向いているのだろうと言う気配という名の脅威を感じ得ぬはずはなかった。

 

この時の時期の感覚に、まさしく似ている。

わたしはここにいてはいけない、いなくてもいい。いても、いなくても。誰にも気付かれない。

それを試したのが、『フォロワー120人大粛清』であった。

 

わたしには一昨日の夜まで120人余りのフォロワーがいた。殺気立っていたわたしは、120人のフォロワーを一人ひとり、自らの手でブロックし、そしてそれを解除した。

 

色々な感情と動悸が渦巻いていた。もう、色々なことを我慢し、許容するする余力がすっかり空っぽになってしまっていたんだな。

上にも述べたように、『ここにいてはいけない』つまりは、(元)フォロワーのフォロワーでいてはいけない、という思いがわたしを突き動かした。

そして、わたしはとにかく些細な他者のツイートで、自分の体調によるところもあるかもしれないが、大きく感情が揺さぶられてしまいがちなのだ。

すぐに自信を喪失し、それが自傷に代わることもある。

ツイッター見ながら、それも誰かとトラブルを起こしたわけでもなくて、ただただ他者が何気なくTLに投下したツイート、その文脈だけで腕をスパッとイケるおかずになる。振り回される。

これはツイートだけに留まらず、他者からのいいね通知ですら起こったりする。

そんな些細なこと。

 

これらから、解放されたくて皆を手放した。

正直、苦手だったが故に、これをきっかけにもう関わるまい、と決めた人もいる。逆に、好きすぎる、親しくしていただいていた者も多数いたが、わたしはフォロワーに優劣をつける勇気がなかった。

好きが故に手放したい者もいた。もう目に入れたくないと思った。

だから、120人を皆等しくブロック&解除。大粛清を行った。

 

 

 

これがわたしの病。

120人は向けられた、試し行動なのである。

これがわたしの育ち。

何が足りなくて、貰えもしない愛を追い続けるのだろう。

これがわたしの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう思えたら簡単ですよ!」って言いたいでしょ、と言われる。さすがだね

 

人間(わたしを含む)には等しく価値があるんだ。

理屈では分かっていても、そうは思えない。

感情がついていかないのだ。

 

主治医は、未だわたしの主治医である。が、本拠地はわたしの通うこの病院ではない。

隣県の精神病院に所属しておられるのだ。

週に一度だけこちらの病院に来られて、当直明けにはそのまま隣県の病院へ帰って行き朝からお勤めになる。

そこで新しい患者さんとの出会いが、もう始まっておられる様子であった。

 

新病院のHPを見ると、『思春期・青年期』の患者を集中的に診ているのか?という印象を抱いていたが、どうもそうでもないらしい。

なんだか、わたしの主治医が抱えている患者は若い方が多いなあ、という漠然としたイメージはこちらの病院に長く勤めておられるから、というのもあってであろう。物腰柔らかく優しいので、若い患者が割り当てられやすいのかもしれない、と病棟で他の医者が診ている、歳の高い患者さんが言っていた言葉を反芻する。

 

主治医は、「第3さんに会いたかったよ」と言ってくださった。

そして、新しい病院では、わたしの父親ほどの年頃のおじさんを診ていて。そんな時、あー、早くわたしに会いたいな、と思ってくださるそうだ。

 

おじさん患者の立場からすると。かつてのわたしとJKのような関係にある。わたしの診察時間なのに主治医の頭の中はJK患者でいっぱいで、そいつの話題を毎度の診察で出してくる、それが苦しい、といった経験をわたしもした。

おじさんからするととんでもないことであろう。

が、わたしは、こうして思い起こしてくれることが嬉しい、と感じてしまった。

 

「第3さんを診ていて、僕自身が成長できたな、って思う」先生はそうおっしゃった。

ええ?

「第3さんの名前は出してないけどね。他の先生と第3さんのことを話してたんだよ。そしたらね——」

わたしのなにをどう、どこまで話したのかはわからない。が、その、目上の先生はわたしの主治医の話を聞いて、ずばり『ODやリストカットをすることで診察時間を延ばそうとしているのでは』と言ったらしい。

「その発想はなかった、と思ってね」と主治医は言った。

わたしは、上司の先生のこの考察は、実に的を得ているなと思った。次に主治医の異動騒動が起きたら、この先生に代わってもいい、という冗談を言ってやろうかと思ったくらいだ。

まったくもってその通りである。先生がどんな顔をするだろうか、と良くも悪くも頭を掠める。そして、切る。

わたしは「まあ動機は(主治医とは)別にありますけどね。たしかに、その先に、診察のことを考えたりします」と答えた。

主治医は「僕の診察にそんなに魅力があるとは思ってなかったから……」と言う。

だから、この考えに至らなかった。

わたしが自傷を起こすのは主治医の気を引きたいから。というのもこれまた一理ある。そんなことは自分の中でもう、導き出されている答えであったし、前回の入院をする前。主治医に、自身が異動すると告げられた直後に、頭の中を巡った考えを泣きながらお伝えしたことがあったが。その時にも『具合が良くなるのが怖かった』『一種の"注意獲得行動"のようなものを犯していた』と述べたはずであったが。心理学というよりも幼児教育の用語なので、うまく伝わらなかったか。

 

「だから、価値がないことはないんだよ」今日の診察を、そう先生は締めくくった。

わたしとの関わりの中で、主治医は何を身につけて何を学んだというのだろうか。わたしという存在を診たことによって、自分自身の業になったと先生は言ってくださる。それは、悪い意味でか?

わたしの頭の中に、一人の6歳児の顔が浮かんだ。もう彼は7歳になっているけど。わたしと出会った当時は6歳だったのだ。

彼はわたしが担任をしている間にADHDの診断を受けた。軽度ではない。他の障がい児との出会いは幾多もあったが、彼はそう一筋縄ではいかなかった。彼からは一時も目を離すことができず、必ず担任のうちのひとりがつきっきりにならなければいけなかった。とはいえ、わたしも彼のことは愛していた。たくさん愛を注いだ。大切な子どもだった。

「価値のない人間はいないと思うし」主治医がそう言うと、わたしの頭の中で7歳の彼が煌々とした笑顔を浮かべた。

それってつまり、わたしは問題児ってこと?

 

問いたかったけど、喉元まできて飲み込んでしまった。

それがわたしってやつ。

「へへへ」と笑ってやり過ごすことしかできない。

 

 

 

ベルソムラは電気羊の悪夢を見るか?

 

最近睡眠薬をベルソムラに変えて頂いてから、睡眠がちゃんと『夜』にとれるようになって、3時には就寝してしまいます。一年間不眠症に悩まされ朝の7時に寝ついていたのが嘘のよう。調子の良い日には、薬を飲まずとも眠気が来たりして。(中途覚醒が嫌なので自然な眠気が来ても服薬の中断はしませんが)

わたしの「ブロチゾラムは(わたしには)効かない気がする」という声に耳を傾けてくださった薬剤師さんと、その相談に応じてくださった主治医には感謝しかない。

 

ベルソムラといえば、副作用として『悪夢』が有名だそうですね。

とはいえ、サイレース(わたしが飲んでるのはフルニトラゼパムと名のついた方ですが)と一緒だとその副作用が抑えられるという謎情報もインターネット上で目にしましたが。

 

また、わたしの悪い癖が始まりました。

薬を飲まない!薬を貯める!

退院直後は、出された薬を守られた容量で飲もう、と頑張ってたんですけどね。

ベルソムラだけは継続して、フルニトラゼパムには手をつけないという生活を、続けて何日経ったでしょうか。

寝入ることはできますが、眠りが浅いのか。不十分なのか。退院後、頑張っていた8:00までに起きる、というのも。守れない日が増えました。また11時過ぎにやっと目覚める日々です。勝手な減薬は。まだ無理だな、ってことです。

 

で、本題なのですが。ベルソムラ単体だけで眠りについていたしばらく、確かに言われてみれば絶妙に奇妙な夢を見るようになったのですよね。

そんなわけで今日は夢日記をここにしたためることとします。夢日記、三本立てです。

 

 

クラスメイトの前でメンヘラムーブを起こす

おそらく、高校生であったわたし。

掃除の時間に、一人大真面目に掃除に勤しんでいたのです。

しかし、周りのクラスメイトたちは手を抜いて、掃除道具を片手に突っ立って、駄弁っているだけ。わたしはついにブチ切れてしまったわけです。

「掃除してるのはわたしだけ。みんなサボっててずるい。自殺してやる!!」そう言い放って、わたしは掃除場所を離れた。

みんな引いてしまったか。誰もわたしに声を掛ける者はいなかった。

小学生の頃から9年間ずっと両片思いだったのに、いざ告白したら「彼女がいるから」と玉砕した初恋相手のKくんが、永遠に夢に出てくるのです。でも、夢の中でもKくんとは一度も言葉を交わすことは。失恋して10年経った今でも、ありません。

掃除当番のメンバーの中にKくんがいた。Kくんとは席が隣同士だったみたいだ。教室に戻ると隣の席に彼が来たんだもの。でも、視界の縁に彼を入れるだけで、わたしも彼も互いの存在に気づくまいとしている。

わたしは友人のCちゃんに話を聞いてもらっていた。

「みんなの前で『自殺する』って言っちゃったどうしよう〜。自殺しなきゃ」「最近貯めてるサイレースがあるや。あれ一気飲みしよっと」

 

 

 

空を飛ぶ夢

空というか、空中浮遊というか。

水の中に浮かんでいる、みたいな感覚に近いのかもしれない。わたしはカナヅチだけど。あるいは、一輪車に乗ったまま一日中生活している、みたいな。

勝手に身体が宙に浮いてしまうの。

ある程度は操縦ができないわけではないけど、まるで制御はできてない。気を抜くと高く飛び上がってしまったり、地に落ちてしまったりする。

塩梅がとにかく難しくて、みんなで空中飛行の猛特訓をしている。うちのマンションの、うちの一室を出入りしながら。

 

 

 

これが一番の悪夢。甥っ子誕生

なんと、甥っ子が生まれるというとんでもない悪夢を見たのである。

わたしには三歳年下の弟がいるのだが、ついにやつは彼女(実在)を孕ませやがった。

彼女はちゃっかりしていて、小狡いところがあって、金髪で堂々としているので、正直義理の妹になってほしくはない。が、顔がいいだけのヘナヘナした我が弟とはなかなかうまくやっているようだ。

ついに彼女が産気づき、病院で待機していた。わたしも病院着を着て同じ病室のベッドに横たわっていたのだけれど、たぶん。わたしも入院してたんだろうな。精神科の方で。

弟に、甥っ子にどんな名をつけるのかと尋ねたら「『金』という字を入れたい」と言われた。アホかと思った。

金太郎しか浮かばなかったが、たとえば『銅』とか『銀』とか『かねへん』の含まれる漢字もOKとのことだった。それでもだいぶぶっ飛んでいるな、『金』というとんでもない漢字のチョイスが、アホすぎて弟たちのセンスのなさを物語っているなあ、とかなんとか。考えていた。

わたしは大真面目に横槍を入れた。

わたしは普段、弟のことを『ポン』と呼んでいる。ほんとうは名前のケツに『〇〇ポン』というあだ名を祖母が命名して、本人もそれをよく気に入っていたので多用されてきたわけだが、どういうわけか名前が消えて『ポン』の部分だけ残った。

それと、弟は柑橘系のフルーツがとにかく好きであるから、わたしは甥っ子に『寛(かん)』と命名したいと言った。ポンを付けたらポンカンちゃんだから。ポン、好きでしょ。ポンカン。

彼女にはハァ?というような顔をされた。

弟は『金』という漢字を入れたい、という決意が揺らがないらしく、ちっともわたしのポンカンちゃんには耳を傾けてくれなかった。

 

いや、しかしマジで甥っ子はごめんだぜ。まだいらねぇ。

義妹、脅威すぎる。マジで。

はあ、弟にまで先を越されて(越されるだろうが)やばいな。

 

 

 

 

 

好きピにケツを掘られた報告をした

 

主治医がせっかく、わたしのために紹介状を書いてくれたのだから。

労力かけられた紹介状をたずさえて、先日わたしはやっとの思いで紹介された胃腸科の病院に行ってきた。

親が「血便がひどいらしいので入院中に検査をしてくれ」と無茶振りしたからである。ここは精神科であって胃腸科ではないんだよ。設備がないから。他所の病院に入院中でも通院させるつもりだったらしいが、わたしが見積もりより早くに出たがったので、自分で通院をしなければならなくなった。

親もひどいもんである。「血便の検査の県はどうなったのか」と退院直前に電話をかけて来て「何故血便の検査の話が出て来たんだ?」と師長が参ってた。モンペですみません、と心から思ったさ。

まずね、父親も自分の痔をボラギノールで治したし、母親は絶賛イボ痔を放置中(20年目)なのだぞ。自分たちは受診を拒んでいる癖に、なぜわたしをわざわざ病院に派遣しようとするのか、気がしれねえぜ。

 

精神病院をしばらく進むと、歯科がある。ここもかかりつけである。そこから更に進んでいくと、次に現れる病院がこの胃腸科を飲み込んだクリニックである。

家から歩いて通える距離にあるものの、まあ用事はないので普段は通らない。こんなところにクリニックがあるのも、よく知らなかった。

 

中に入るとなかなかの大盛況で、困った。

院内は土足を脱いで上がるスタイルなのだが、スリッパが無い。

そのくらいに患者で蔓延っていた。

ただの胃腸科だと思っていたのに。内科と小児科もやってるらしい。春休みだということもあってか、ジジババはもちろんだが、子ども連れの親子も多かった。そしてその小さき小学生どもがこぞって大人用のブカブカのスリッパを履きやがる。

こうして本物の大人が来院した時、困るではないか。大人用のスリッパが、もう一足もない。

しかし、床の上は不潔な気がして。一瞬、スリッパを履かずに素足で上がらせてもらおうかとも思ったが。どんなウイルスをわたしの靴下が持ち帰るか分かったもんじゃない、と思って、わたしは仕方なしに子ども用のスリッパを履くことにした。

わたしでよかったな。わたしでなければできない芸当だぞ。

自慢ではないが、わたしは足のサイズが小さい。

横幅が広いので、靴はだいたい22.5〜23.5cmくらいを購入するが、物によっては縦幅の余りを感じることもある。もちろん、つま先までは入らなかったさ。足の横幅が大きすぎて小さなスリッパにつっかえてしまった。しかし、他の一般的な足のサイズをした大人ならここまで深く子ども用の某ネズミの絵のついたスリッパを履くことは難しいであろうし、はみ出るのがほんのかかと部分だけ。つま先歩きを努力せずとも、院内を歩けてしまう自分の足の小ささにあっぱれだった。生まれて初めて「足が小さくて助かった」と思った瞬間だった。

 

受付の人も大変無愛想である。

お初にお目にかかる患者だというのに、わたしゃどうしたらいいんだい。なんとか言ってはくれまいか、と思った。ボケッと受付の前に数秒立っていたら、やっとわたしのために受付の人が動き始めた。

受付の人、二人もいるのなら。患者さんが来られたら普通、片方はすぐに来院された方の対応をするのではないかね。と思ったりした。わたしから食い気味に「こんにちは」と挨拶をして、保険証と紹介状を渡しながら「本日予約しました」と名を名乗って、やっとこさ問診票を手にした。

待合室にも人が多すぎて、触れる場所がない。

キッズスペースのような座敷もあるけど、わたしみたいなこどおばがそんなところに座ってたら怖いかな。なんか、大人しく待ってはいられない身体の大きな小学生もいるし、不気味であった。知能が心配だとわたしはすぐにピンと来た。

 

ああ、知らない病院からの洗礼を受けている。スリッパはないし受付は無愛想だし、患者も多いし内科もあるし(頼むから胃腸炎系の病気はもらって帰りたくない)、壁には『PCR検査受けられます。』という明朝体で書かれた文字をプリントしただけの、お手製と思しき不穏な紙まで貼られていた。

胃腸科、もしくは肛門科。単体の病院に送れよ、とわたしは思った。こんなご時世に、感染症の患者さんと接触する可能性のある病院に送られたくなかった、と。日頃引きこもりをしていて感染リスクが低い生活を送っているがために、強く感じた。わたしは元より潔癖で、精神科や歯医者や皮膚科や整形外科等以外の、感染性のある病気の人が来るかもしれない病院(つまり内科とか胃腸科とかの類である)が恐ろしいのである。

 

予約したのに。初診だからか、なかなかに待たされた。

いつも通っているかかりつけの内科はめちゃくちゃに捌けるし、毎週世話になっている精神科も空いてる時間を狙って来院することにしているので、病院で待たされるとうんざりしちまうね。

わたしより後に来た親子が先に診察室に倒されたりする姿を横目に見つつ、そして靴箱に返却されゆくスリッパも見つつ。

しかし、大人用のスリッパに履き替える気も起きなかった。この小さきスリッパを無理して履く行為は、わたしの中の自己犠牲心の象徴に思えた。他者が脱ぎたてホヤホヤの、人肌の温もりを残したスリッパに履き替えるなんてごめんであった。取っ替え引っ替えするより、ずいぶんなんらかの感染症をもらうリスクが下がるであろう、清潔に過ごせるであろうと考えて、小さきスリッパに無惨にも押し込まれた足たちを労った。

 

やがて通されたのは、処置室のような場所であった。

待合室を抜けると似たような扉がたくさんあって、わたしが押し込められた部屋には『5』と扉に書いてあった。つまり、なんだか似たような処置室だか診察室だか。あと4部屋は存在しているということだ。

部屋にはベッドが置いてあって、その横には嫌にデカい機械が置いてあったが、この機械とはご縁がないことを祈った。

 

若い女性看護師に、ベッドに横になるように言われた。

腰のあたりをタオルケットで隠され、下着を下ろすように指示をされたので、そのようにした。すると腰にタオルがかけられて「そのままお待ちくださいね」と言われた。

わたしはずっと壁の方を向いて横になるように言われていたのだが、医者が到着する間、何度か処置室を看護師が出入りしている様子がうかがえた。というのも、普通、尻を丸出しにした患者が。それもジジイでもババアでもなくてうら若き、自我もしっかり持っている20代前半の女性の初診患者だぞ。もう少し丁寧に対応してくれてもいいんじゃないか。

例えば、準備のために処置室を往来するときにもノックして「失礼しますね」「準備しているので何度も出入りしてすみませんね」と声掛けをするだとか、あるのが自然なんじゃあないか?わたしなら、そうするけど。ここの病院の看護師は無言で処置室に入って来ては、何かしらをガサガサとやって出て行く。

そんなことが数回続いた後で、ようやく医者が登場した。

男性の医師であることは、主治医(はるきゅん)から説明を受けていた。後で聞いた話だが、主治医のお兄さま(家業を継いでクリニックの医者)のお知り合いらしい。それで、主治医も何度か自分の患者をこの病院に送ったことがあるそうな。後になってわたしは言ったさ。「もうあの病院に他の患者さんを送るのはよした方がいいですね」と。

 

突然、尻を触られたのでびっくりした。

普通、一声かけないのか?わたしは、壁を向かされているので、医者の顔も見えないのである。そんな中、突然尻を開かれたので、少しばかり驚いた。無神経さに。なんとか言ったらどうなんだ、と思った。

 

しばらく尻を観察され、看護師に「ジェル塗りますのでヒヤッとしますよ」とやっと声掛けらしい声掛けが来た。ジェルを塗られたので、ああ、今から何かをついに入れられちまうんだな、という想像はできた。

実は写真の直前に通話した相手が肛門科の先人で、痔瘻というやつになっていたらしく手術の経験者であった。「まず、指は確実に入れられると思う」「(その先人は)カメラを入れられて、グリグリされた」と語ってくれた。ので、『確実に指を入れられる』という謎の覚悟が出来上がっていた。

ついに来た。「息をフーッと吐いてくださいね」看護師の言うとおりに「フ————ッ」と声に出してやりながらわざとらしく呼吸をした。分かっていたが、尻の中に何かが飛び込んできたのでまたもびっくりした。だから、何とか言いなさいよ。

わたしは自分が何をされているのか。先人のアドバイスのおかげで「たぶん触診されてる」というのは分かったが、本当にこれは指で掘られてるのか?それとも、カメラでグリグリされてるのか?はたまた、別の器具か何かでほじくられているのか?

なにも、そのあたりの言葉掛けがないので、一体自分が今どのような処置を施されているか分からない。

 

そして、これが一番信じられないポイントであった。

尻の向こうから、『パシャッ』とシャッターの音が聞こえた。

わたしはすぐに察した。ケツの写真を撮られているということを。患部の写真を撮影しているのだ。

以前、皮膚科にかかったときにも患部の写真を撮られたことがあった。それがすぐに電子カルテに載った。さすがにその皮膚科でも、記録のために撮らせていただく、と一言ことわりがあった。しかし、このクリニックは勝手に患部の写真を。しかも尻の穴の写真を。わたしの許可も、わたしへの説明もなく勝手に撮影を始めた。

あの電子カルテiPad撮影皮膚科を通っていたから驚きは半減だったものの。そうやって今は気軽に患部の写真を撮って記録に残しとくもんだ、と知らなかったら。わたしはびっくりして声を上げていたかもしれない。

 

医者と看護師は「これだこれだ」と何やらを見つけたらしくて嬉しそうだった。触診で分かる部分に、悪い部分が見つかって何よりであった。

この浅瀬に何も異常がなければ、カメラを突っ込まれるところだったかもしれない。

しかし肛門というのは、だいたい出口である。入口ではない。非常に苦しい。好きなYouTuberが、大腸カメラでケツを掘られてる動画を見たことがあったさ。潰瘍性大腸炎という持病を持つ彼のガチ恋であるわたし。彼の苦悶の表情が見ていてつらかったのを覚えている。

医者に「ここ痛いでしょう?」と触られるも、もう「苦しいです」という言葉しか出なかったよ、ゆたちゃん。

 

医者は引っ込んだ。そして看護師も片付けをして出て行った。

ベッドに腰掛けて待つように言われたので、数分そうしていた。

そしたら、医者が『おしりSOS』と書いた、タイトルだけで笑っちまいそうなパンフレットを持って来て、それを開きながら、図解を見ながら。そして印もつけながら。説明を聞かせてくださった。この辺りの説明だけは、まあ丁寧だなとは思ったが。後の処置は全部雑でクソだ。

誰か、ベッドに横たわるために脱ぎ捨てたミ●キーマウスの子ども用スリッパにつっこみやがれ。

 

……って話を、最愛の主治医にしたんだよね。

なんでよその病院でケツの処女を奪われちまった話をしなけりゃならないんだ、と思いつつ。わたしはしこたま、上記のような説明をして。口調は穏やかであるが苦言に変わりはない。クレームを言っているのと同じだ。

 

主治医は「申し訳ない」「嫌な気持ちをさせるつもりはなかった」と平謝りで、手を合わせて「ごめん」と陳謝した。

そこから研修医時代に、診察台にウィーン乗せられて先輩の医者に、パチンと太ももを叩かれてビクッと来た話(意訳)を聞いて滾る興奮を抑えたり、「兄経由で報告しとこう」と、まあとにかくわたしのトンデモ病院受診体験は、トンデモ病院にフィードバックされそうである。

もう二度とわたしのように、雑に尻を掘られる患者を、この病院から出すなよ!と思ったのであった。

 

病院から出た時もそうだったけど。

主治医に話して尚更、何かを喪失したような気がした。

 

 

イメソン厨の主治医

 

診察の雑談コーナー。

主治医はとあるドラマを見ておられるらしい。医療系のドラマで、登場する患者を見ながら、劇中で病名が反応する前にご自身で疑似診察をして、病名を的中させる遊びにハマっておられるんだとか。我々一般人がふつうにクイズ番組を見ているような。そんな感覚なんだろうなぁ、と思いながらその話を聞いていたわけだが。この話の着地点は、ドラマの主題歌を聞いているとわたしの存在が頭をチラつく、というところであったらしい。

 

はあ。

わかるよ。わたしも、無闇にイメソンを考えるの好きなタイプのオタクだもの。

しかしながら、わたし自身にイメソンを割り当ててきた人類など、主治医がはじめてであった。Ado氏の『心という名の不可解』という楽曲らしく、では「帰り道に聴きながら帰ります」と話したのであった。

 

「これを聴けば先生から見たわたし観が分かるのですね」

 

病院から去るとき、主治医も同じくして、別の職員出口から出てきた。彼も振り返り、何メートルも後ろにいるわたしの存在に気がついてペコりと頭を下げた。走って追いかけて犬のように飛びついてやろうかとも思ったが、看護師たちであろうと思しき他の職員も定時を迎えて、制服から私服に着替えて帰路につかれておられた。患者が走って追いかけてきて主治医にしっぽを振っていたら、それはかなり奇妙な光景に映るだろう、と思ってやめた。

その代わりに、そうだそうだ。帰り道にAdoを聴くんだったな、と思い出した。主治医は左に折れてバス停の方向へ歩いて行くまで。すなわちわたしが視界に入るうちに二度ほど振り返ってわたしの姿を確認したように見えたが、それでもわたしは追わなかった。立ち止まって待っていてくれたら、さすがに走り出してはるきゅんの元へ舞っていったろう。主治医はわたしがどう出るか、動きを気にしているのかな。まさかわたしが走って自分のことを追ってくるのではないか、ということを危惧してチラチラ様子を伺ってきたのではないかな。知らないふりして立ち去ってしまうのも無愛想すぎる(すなわち、見捨てられたと感じてわたしの情緒が狂うかも)とでと考えたのかもしれないと感じたりしていた。

 

わたしは左には曲がらない。

病院の敷地を出てすぐの横断歩道を渡って、それから少し行った先を右に折れて家へ向かう。

まっすぐ直進への長い信号を待ちながら、わたしは主治医が勧めてきた『わたしの存在がチラつく曲』を探し当てて聴き始めた。

なかなかの羞恥心であった。よくも主治医も「わたしがチラつく」と告白してくれたものである。歌詞がなかなかまっすぐに鋭くて、悪い表現で言えば厨二病的と言われてもやむなしである。なんて聴くに耐えない詩を歌い上げるんだ、Adoは。と思ったが。

まあ、たしかに。解釈(主治医)と公式(わたしの存在)は結構一致しているんじゃあないか、と。その少々露骨すぎる痛々しい歌詞を噛み締めながら、帰り着いた。

わたしなりにこの曲の詩を噛み砕いていこうと思う。

歌詞を掲載することはできないので、歌詞を読んでYesかNoか。アンサーだけ逐一書いて行くわね。

 

 

 

それは最後にやるとして、以前もとある楽曲が診察室で話題に出たことがある。

わたしはこの現象をガタカ問題と呼んでいる。ガタカという映画があるのだが、この映画に対する印象がずばり『ポジティブ』な印象が『ネガティブ』な印象か?というものである。あの映画は、ただの凡人でも夢を叶えるために努力の限りを尽くして突き進む、という主人公の生き様を描いていて、そこに『ポジティブ』さを見い出す人も多かろうと思うが、わたしはあの映画には『ネガティブ』なイメージしかない。彼を突き動かしているのは才能のない凡人(ガタカの世界ではいわば低スペックの下等人類)だということへの劣等感や、優秀な遺伝子を持ったハイスペック人間にしか人権はない、という社会構造への絶望だと思うからだ。

 

それと同じようなことが、診察室でも繰り広げられたことがあってね。ある時、主治医が音楽の話題を出してきた。邦楽より洋楽の方が聴いている、と言ったからだろうかな。主治医は最近Siaの『Chandelier』という曲を聞いていると言った。そして、これは希望の曲だとも言った。

しがらみから解放された人の曲なのだと教えてくれた。

でも、本当にそうかな?わたしもこの曲は好きで前々から知っていた。Chandelierとは、ずばり首を吊っている自分の様子を「シャンデリアにぶら下がっている」と表現してるもんだと思って聴いていた。酒をあおり、自暴自棄になり、首吊り自殺を夢見るうつ病ソングだと思って聴いていたわけである。

わたしの解釈を、もちろん主治医に話した。主治医は興味深そうに聞いてくれた。こうしてネガティブな表現に落とし込んで解釈してしまうのがわたしの病的なところなのかなぁ、とも思いつつ。

これが主治医が何度もわたしに対して口にする『認知の歪み』ってやつなのかもしれないが、まあ、答えはSiaにしか分からない。

 

 

というわけで、主治医が示してくれたわたしチラつきソングへの公式見解(わたしの感想)を一行一行、逐一噛み締めながらお答えしてみようと思う。

 

たしかに。

わたしなら瞬きも視線を逸らすのも

逃すことなくはるきゅんの一挙一動を捉えそうである。

 

たしかに。

病名がつけられても。自分の心の正体が掴めずにもがいているように見えるかもしれないし、誰にも理解されないんだという諦念もたしかに、ある。

 

『正確に記録された』わたしの日記のこと言うてます?

そうです。ODを報告するときのために、わたしは何日に何を何錠飲んだといちいち記録を取っている。

 

うむ。「いまわたし喋ってるけど、このことカルテに書かなくていいんか?」と思う瞬間は多々ある。

記録は大切である。仕事がわたしを記録魔にしてしまったからな。

 

あー。『吐く』って文字はすみませんがNGですけど

心境を吐露してるって意味かしらね。

 

たしかに。どうすれば治るのか。

治療法をとっとと教えていただきたくはある。

気長に付き合うべき病だと分かってはいるけどね。

 

サビ、暴れてるときの俺か。

 

そう。今を刹那的に生きている。

明日の楽さなんてどうだってよい。

今日をどうやって生き抜けるか、を主軸に行動している。

 

このあたり何言ってるかわからないっすね。

 

そうである。もっと乱暴に扱ってくだされば、わたしは満たされる。

しかし、長い目で見ればそれは破滅を呼ぶ。まさに刹那的な結果しか生まない。

 

『愛情は投薬』先生もそうおっしゃってたね。

診察時間が短くなると、患者は他のもので愛を埋めようとする、と。わたしは薬を求める傾向にあると解説してくださったわね。まさに俺か。

 

素直になれぬ、たしかにそうである。

わたしは感情より理論や倫理を重視してしまうので、あまり感情に正直な方ではないかもしれない。

 

見抜いてよ。確かに。

まあ、多分すべてお見通しで見抜かれてるんだろうけれどもね。

 

たしかに。転院を告げられたとき、見捨てられた気持ちになった。

まさに、そばに来ないで、という気持ちになった。これ以上優しくされて、そして去っていかれるのが怖かったからである。

 

入院中めちゃ泣いてたからね。

目が潤みっぱなしだったわね。

 

この想いの答えは、愛。

 

 

はてさて。

先生の解釈はとてもまたを得ていたわよ、って来週はお伝えしなくっちゃね。