イメソン厨の主治医

 

診察の雑談コーナー。

主治医はとあるドラマを見ておられるらしい。医療系のドラマで、登場する患者を見ながら、劇中で病名が反応する前にご自身で疑似診察をして、病名を的中させる遊びにハマっておられるんだとか。我々一般人がふつうにクイズ番組を見ているような。そんな感覚なんだろうなぁ、と思いながらその話を聞いていたわけだが。この話の着地点は、ドラマの主題歌を聞いているとわたしの存在が頭をチラつく、というところであったらしい。

 

はあ。

わかるよ。わたしも、無闇にイメソンを考えるの好きなタイプのオタクだもの。

しかしながら、わたし自身にイメソンを割り当ててきた人類など、主治医がはじめてであった。Ado氏の『心という名の不可解』という楽曲らしく、では「帰り道に聴きながら帰ります」と話したのであった。

 

「これを聴けば先生から見たわたし観が分かるのですね」

 

病院から去るとき、主治医も同じくして、別の職員出口から出てきた。彼も振り返り、何メートルも後ろにいるわたしの存在に気がついてペコりと頭を下げた。走って追いかけて犬のように飛びついてやろうかとも思ったが、看護師たちであろうと思しき他の職員も定時を迎えて、制服から私服に着替えて帰路につかれておられた。患者が走って追いかけてきて主治医にしっぽを振っていたら、それはかなり奇妙な光景に映るだろう、と思ってやめた。

その代わりに、そうだそうだ。帰り道にAdoを聴くんだったな、と思い出した。主治医は左に折れてバス停の方向へ歩いて行くまで。すなわちわたしが視界に入るうちに二度ほど振り返ってわたしの姿を確認したように見えたが、それでもわたしは追わなかった。立ち止まって待っていてくれたら、さすがに走り出してはるきゅんの元へ舞っていったろう。主治医はわたしがどう出るか、動きを気にしているのかな。まさかわたしが走って自分のことを追ってくるのではないか、ということを危惧してチラチラ様子を伺ってきたのではないかな。知らないふりして立ち去ってしまうのも無愛想すぎる(すなわち、見捨てられたと感じてわたしの情緒が狂うかも)とでと考えたのかもしれないと感じたりしていた。

 

わたしは左には曲がらない。

病院の敷地を出てすぐの横断歩道を渡って、それから少し行った先を右に折れて家へ向かう。

まっすぐ直進への長い信号を待ちながら、わたしは主治医が勧めてきた『わたしの存在がチラつく曲』を探し当てて聴き始めた。

なかなかの羞恥心であった。よくも主治医も「わたしがチラつく」と告白してくれたものである。歌詞がなかなかまっすぐに鋭くて、悪い表現で言えば厨二病的と言われてもやむなしである。なんて聴くに耐えない詩を歌い上げるんだ、Adoは。と思ったが。

まあ、たしかに。解釈(主治医)と公式(わたしの存在)は結構一致しているんじゃあないか、と。その少々露骨すぎる痛々しい歌詞を噛み締めながら、帰り着いた。

わたしなりにこの曲の詩を噛み砕いていこうと思う。

歌詞を掲載することはできないので、歌詞を読んでYesかNoか。アンサーだけ逐一書いて行くわね。

 

 

 

それは最後にやるとして、以前もとある楽曲が診察室で話題に出たことがある。

わたしはこの現象をガタカ問題と呼んでいる。ガタカという映画があるのだが、この映画に対する印象がずばり『ポジティブ』な印象が『ネガティブ』な印象か?というものである。あの映画は、ただの凡人でも夢を叶えるために努力の限りを尽くして突き進む、という主人公の生き様を描いていて、そこに『ポジティブ』さを見い出す人も多かろうと思うが、わたしはあの映画には『ネガティブ』なイメージしかない。彼を突き動かしているのは才能のない凡人(ガタカの世界ではいわば低スペックの下等人類)だということへの劣等感や、優秀な遺伝子を持ったハイスペック人間にしか人権はない、という社会構造への絶望だと思うからだ。

 

それと同じようなことが、診察室でも繰り広げられたことがあってね。ある時、主治医が音楽の話題を出してきた。邦楽より洋楽の方が聴いている、と言ったからだろうかな。主治医は最近Siaの『Chandelier』という曲を聞いていると言った。そして、これは希望の曲だとも言った。

しがらみから解放された人の曲なのだと教えてくれた。

でも、本当にそうかな?わたしもこの曲は好きで前々から知っていた。Chandelierとは、ずばり首を吊っている自分の様子を「シャンデリアにぶら下がっている」と表現してるもんだと思って聴いていた。酒をあおり、自暴自棄になり、首吊り自殺を夢見るうつ病ソングだと思って聴いていたわけである。

わたしの解釈を、もちろん主治医に話した。主治医は興味深そうに聞いてくれた。こうしてネガティブな表現に落とし込んで解釈してしまうのがわたしの病的なところなのかなぁ、とも思いつつ。

これが主治医が何度もわたしに対して口にする『認知の歪み』ってやつなのかもしれないが、まあ、答えはSiaにしか分からない。

 

 

というわけで、主治医が示してくれたわたしチラつきソングへの公式見解(わたしの感想)を一行一行、逐一噛み締めながらお答えしてみようと思う。

 

たしかに。

わたしなら瞬きも視線を逸らすのも

逃すことなくはるきゅんの一挙一動を捉えそうである。

 

たしかに。

病名がつけられても。自分の心の正体が掴めずにもがいているように見えるかもしれないし、誰にも理解されないんだという諦念もたしかに、ある。

 

『正確に記録された』わたしの日記のこと言うてます?

そうです。ODを報告するときのために、わたしは何日に何を何錠飲んだといちいち記録を取っている。

 

うむ。「いまわたし喋ってるけど、このことカルテに書かなくていいんか?」と思う瞬間は多々ある。

記録は大切である。仕事がわたしを記録魔にしてしまったからな。

 

あー。『吐く』って文字はすみませんがNGですけど

心境を吐露してるって意味かしらね。

 

たしかに。どうすれば治るのか。

治療法をとっとと教えていただきたくはある。

気長に付き合うべき病だと分かってはいるけどね。

 

サビ、暴れてるときの俺か。

 

そう。今を刹那的に生きている。

明日の楽さなんてどうだってよい。

今日をどうやって生き抜けるか、を主軸に行動している。

 

このあたり何言ってるかわからないっすね。

 

そうである。もっと乱暴に扱ってくだされば、わたしは満たされる。

しかし、長い目で見ればそれは破滅を呼ぶ。まさに刹那的な結果しか生まない。

 

『愛情は投薬』先生もそうおっしゃってたね。

診察時間が短くなると、患者は他のもので愛を埋めようとする、と。わたしは薬を求める傾向にあると解説してくださったわね。まさに俺か。

 

素直になれぬ、たしかにそうである。

わたしは感情より理論や倫理を重視してしまうので、あまり感情に正直な方ではないかもしれない。

 

見抜いてよ。確かに。

まあ、多分すべてお見通しで見抜かれてるんだろうけれどもね。

 

たしかに。転院を告げられたとき、見捨てられた気持ちになった。

まさに、そばに来ないで、という気持ちになった。これ以上優しくされて、そして去っていかれるのが怖かったからである。

 

入院中めちゃ泣いてたからね。

目が潤みっぱなしだったわね。

 

この想いの答えは、愛。

 

 

はてさて。

先生の解釈はとてもまたを得ていたわよ、って来週はお伝えしなくっちゃね。