保管用ビスコ

だらだら文章を書いてても何となくまとまりがないので、今日の日記は少しずつのまとまりに分けて書いていく。

 

 

◎主治医来年いない説、濃厚か?

今日は「来年僕が去るから」と断定されたような(先週には、やたらと大泣きするわたしを見て保険をかけていた「来年もいるかも知れない」、という逆張りの言葉がなかった)言葉の使い方だったところが刺さった。

今日も次の担当医の希望、もしくは元々通っていたクリニックに転院するかどうかを問われた。

メンタルクリニックは遠い(職場の近くだったので通院しはじめた)し、わたしを一度見放した(というとかなり強く被虐的な表現だが)医者のところに帰りたくないし、そもそも受け入れてもらえない気がする。島流しにされちゃったのも「自殺の仄めかしと自傷行為をやめられないのなら入院施設のある病院で」と転院を勧められたのだ。希死念慮自傷も良くなるどころか横這い、あるいはもっと今は悪い状態に落ち込んでいるし、戻されてもあっちでまたヤバ患者認定食らって今の精神科に戻ってきちゃいそうな気がする。吐き気止めを一気に90錠くれちゃう気前の良さは好きだけど。

 

 

◎依存と退行

今日出た心理学・精神医学ワードである。

◯依存

先週から医者が口にするようになった言葉。主治医に対して心理的に依存しているところがある、というのは常々感じていたところだが、たぶん、はっきりと医者には伝えていなくてひた隠しにしていた。そして主治医の異動を知って、もう内に秘めることをやめた。

錯乱して予約外の日に受診したいと願った日の心理を問われて導き出されたのが「精神的依存」であった。誘導尋問されて、わたしがそう答えた。

 

主治医は「もっといいお医者さんはたくさんいると思うし」「(わたしへの働きかけが)良いようになってない気がする」と言った。

声の調子は変わらないがなんだか悲しそうに聞こえた。先生が自虐したことを言うと、わたしも悲しくなってしまう。わたしはこんなに先生のことを頼りにしてるのにな、自信には繋がらないんだな、とおこがましいながらに感じてしまうわけだ。

「依存させてる」とのことだが、「はじめは依存させるところからだと思うけどね」と。安心感と信頼を患者との間に育んでから自立させていくものなのではないかと考えている、というようなことを教えてくれた。

安全基地理論。

 

◯退行

著しい睡眠障害についてのご意見である。

今週の入眠時間が朝の7時であるのは、退行だと言われた。まだわたしは良くなってないんだ、行かないでくれ、という気持ちからわたしの身体は不眠をやっている、ということだ。

退行というか、抵抗かも と医者が言うので、その通りかも知れない……と返しておいた。

 

 

 

睡眠薬が追加された

ブロチゾラム0.25mg×二錠が無意味で、この三日ほどは睡眠薬を勝手に断薬して過ごした。抵抗というか……反抗している。こうすることで睡眠薬変えましょう、と誘導すると言う作戦である。

これが功を奏してブロチゾラム二錠に加えてフルニトラゼパム1mgを飲むことになった。

主治医は、薬のチョイスは大胆(知らんけど)だが、慎重に出すイメージがあったので。みんな大好きフルニトラゼパム(しかし1mgは白い)を引き出せたことに驚きと謎の達成感があった。あと、これだったら眠れるんじゃないか。今よりも、という安心感も得た。

一方、これまで薬物漬けにならないようにと、身体を労って薬を調整してしてくださっていたのに、こうも簡単に強い(と信じている)薬物を追加処方されてしまうと、何だか見放された気もして悲しくなった。次の先生が批判しないことを祈るよ。(薬がガラッと変わると前の医者が批判されてるような気持ちになっちゃう人)

 

 

 

◎どうしようかねえ

主治医は「どうしようかねえ」と最近よく言うんですが、どうしようって何のことをだ?と思いつつ、曖昧な相槌をうつしかない。

入院させるか野に放つかを考えているのかも知れないし、この先の治療方針のことを考えているのかも知れないし。しかし今、このわたしが抱えている一番大きな問題は主治医という愛着対象に限りなく高い存在を喪失するショックであるし、それに関してはどうしようもない。うーん、主治医の新しい赴任先を先に燃やしとくか。そんなとこしか解決法はない。(大丈夫、わたしは他害は与えません)

 

 

 

◎バレンタイン

エチゾラム盛りのチョコ

先生に「今年で先生とは最後かも知れないし」「いつもお世話になっているので」とバレンタインをお渡しすることができた。

もう少し医者を和ませられるかな、とも思ったが、わたしも淡々と渡してしまったな、という感じで。受け取った医者も想像より淡々としていた。もう少し、わあっと受け容れてくれそうな気がしたのだ。

主治医はそうかそうか、とバレンタインが訪れたことを今知ったというような感じで「おじいさんおばあさんばっかり診てるからその発想はなかった」とおっしゃった。

大変なときに準備の労力をかけてしまったことを申し訳ない、と言いつつも ありがとう、と受け取ってくださった。

エチゾラムがたくさん入っていたりして……」と冗談を言ったりもしていた。なけなしのエチゾラムは流石に入れない。

そうか、わたしは先生の中でエチゾラムバカ飲み女という認識(しかも調理に使い身の回りの人間に振る舞いそうなタイプの人類)なんだな、と思った。

嫌がっている感じはなかったが、こちらが押すと医者は一定の距離を保とうとしているような気がしてならない、というのはわたしが自分を防衛するために主治医のぬくもりを感じないように否認しているだけなのかもしれないが。

医者に「わたしはこれだけあなたに依存してるんです!」という悪いアピールになってしまっているのではないか、「依存させている、良い治療になっていなかった」という考えに結びつけてしまうのではないか、と思ってしまう。

まあ、なにも差し上げない、という選択をとっていたらそれはそれで後悔することになっていたと思うので、これで良かったと思う。

 

◯保管用ビスコ

某ビーグル犬のキャラのついた瓶にアイシングクッキーが詰めてあるやつを献上した。

なんでだろう、父がこのビーグル犬のキャラクターが好きで、自分にゆかりのないキャラクターものはあまり許せないのだが、この天才ビーグル犬のことは許容できてしまうのだ。わたしのなかに、世の男性は等しくこの愛されビーグル犬をまさに愛している、という偏見があるのかも知れないし、主治医への愛着を自分の父親との繋がりとを重ね合わせて感じている部分があるのかも知れない、とも思いつつ。移行対象で『ライナスの毛布』のお話とかもしたし。

もうひとつ、チョイスするときに頭に留めていたのは『あとに残るもの』を選ぶ、ということだった。

昨年の4月末に、退院時に誰も迎えに来られなかったためにわたしはら大荷物を持ってひとり歩いて帰ることを決めていた。往復するのもだるいし家族が迎えに来るのを夕方まで病室で待つのも嫌だった。

かなり無茶だったが自力で帰る!と最後の診察で宣言したのだが、主治医が心配して、丁度昼休みにランチに出かけるから、と言ってわたしの荷物を共に持って家まで一緒に歩いてくれたことがあったのだ。

なんだかとても申し訳がなくて、手持ちの菓子の中にあったビスコをお礼に持ち帰ってもらったのだ。入院中に母親がわたしに差し入れしてくれたけど食べきれなくて封を切ることもなく残ってたやつ。

数ヶ月後に突然医者が「あのビスコまだ食べられてないんだよね」「ずっと机に置いてある」(もったいないというニュアンスを受けた)と言い出した。結構経っていたから、早めに召し上がってくださいと申し上げ奉ったのだが。ついに今日「消費期限切れてる」という発言を引き出した。まだ残しておられるらしい。ので、もったいなくて食べられないのなら、消費されてしまうものよりなにか、残せるものの方がいいと思って。小物を入れるも良し、ペン立てにでもするも良し、保管できる瓶入りのクッキーを選んだのだ。

うーん、なんかもう少し食欲に全振りしたものでも良かったかな、とは思うけど。この悔いは来年晴らさせてほしい。来年度もわたしの主治医であってくれ。