家族会議というか、裁判だよね。
部屋をノックされたがスペース中だから応答しなかった。
誰も「どうぞ」なんて言ってないのにいつも扉を開けてくる父。ノックの意味とは。
「電話中?電話が終わったら来て」と言われた。
マイクをミュートにして「なんの用?」って二度くらい聞いたけど「話があるけ」と少々だが語気強めに言われたのみで、回答は得られなかった。
どうせこんな風に呼んどいて、いつも大抵他愛もない話を持ち掛けられるだけなので、今日もそうだろうと思って。自分のスペースにまだフォロワーが残っていたが「呼ばれたからちょっと言ってくる」と告げて携帯を離れリビングへ行った。
まず、わたしの家庭的にリビングに両親二人が揃っていることがおかしいの。
母親は父がいれば逃げるし、父親も母が不機嫌になるから、いつもなら用事を済ませたらいそいそと自分の寝室に退散するんだけど。
おや?なんだこれは、と思った。
なんとなく座らなきゃと思って近場の椅子に座ったら「そこに座るか」と父はやたらと離れた椅子に座った。左に父、右に母でどこを見ていたらいいかよく分からない。
父が「明日は仕事に行けるんか?」と訊いてきた。またかよ。口を開けばそれしか言ってこない。わたしはそのつもりだとか、なんか曖昧な返事をしたと思う。気持ちは行きたいよ。だってもう今週には卒園式だもん。
そしたら父は「最近のお前大丈夫?」と言う。
わたしはちっとも心当たりがなかった。
今朝、顔を真っ青に染めたのがダメだったらしい。
フルニトラゼパム1mgを2錠分スニッフしたら、鼻の穴でそれが解けて口の周りが朝方には真っ青になってたみたいだ。半分寝てたからあれは夢だと思おうと決め込んだんだけど、朝方母親が騒いでいたような気がするし、昼間は仕事の昼休みにわざわざ家に帰ってきてわたしに「顔を洗いなさい」と言ってきた。そこでほんとに口の周りが青くなっていることにちゃんと気がついて、洗顔するもなんとなくまだ青くて、青髭みたいなことになって不愉快だった。
それから昨日珍しく病院をサボるほどに動けなかったこと。
そして、最近ずっと誰かと電話している(大抵ツイッターのスペース機能だが)のがダメらしいよ。
母の逆鱗に触れちまったのがその前の晩の夜で、10年来のフォロワーと初めての通話に試みていた。
生き別れの兄貴かよ、ってくらい話、というより波長の合う人で、すごく癒されたんだけど。10年互いをフォローしている親しいフォロワーであるが故に、この関係性を必要以上に近づけて壊したくなくて、通話にこぎつけるまでずいぶんと慎重になった。特に姉貴(彼は性別を非公開にしてインターネット活動をなされているので曖昧な表現にしておく)の方が。
そんな兄貴がようやく「お話しよう」と言ってくれたので、わたしは嬉しくて。12時近かったけどそれに応じた。
夜中はわたしのスペースゴールデンタイム。
不眠症の人々がツイッターに集結しているし、家族も寝入ってしまうので話の内容を聞かれる心配はほとんどない。
何度も隣の部屋が寝室の母に「電話の声聞こえてる?やると確認を取ったが「いいや」と答えていたのに。
昨晩は2時ごろLINEを飛ばしてきた『お楽しみのところ悪いけどそろそろ終わりにしてくれる?眠れないわ』と。
姉貴ももうかれこれ一時間「寝なきゃ」と言っていたが「話したい気持ちが空回りしている」と何度も話していて、電話を切るのが名残惜しいほど、わたしとの通話は居心地が良かったらしい。わたしも同じ気持ちで、元々わたしが彼のファンでずっと彼女の創作を見て、尊敬に値する人物だった。上手いとかじゃなくて、兄貴にしか描けないような歪(と形容するのもまた失礼な気がするが)な、特殊な表現で作品を描かれる人なのだ。あと生きているのかも分からん掴みどころがなくて、まるでインターネットに住む妖精みたいな彼女の本性を知りたくて無意識に彼に近づいていったのだ。
なんとなく「もう切ろう」とこちらが言わなくても彼女は眠りそうであった。自然に通話が終えられる気がしたんだ。わたしはニートだし、夜中の通話は「不眠症なんで、どんと来いです」と答えたんだけど、兄貴の方は朝早く起きてお務めがござったから、「もう寝なきゃ」と、彼女は本当にこの通話を締め括ろうとしていたから自然な流れに任せて通話を終えられると思ったんだよ。
そして「また話そうね」「おやすみなさい」「またね」「じゃあね」なんか言っているうちに、部屋のドアをガラガラと開けてくる者があった。
母だった。
「おやすみなさい」母はその一言だけ言ったが、わたしにはこう感じられた。
『電話をやめてってお願いしたよね?いい加減にしてくれん??』
せっかく兄貴との会話で癒されたのに。この上ないほど、他愛もない話しかしてないのに。大きな癒しを得たのに。まさに"チル"ってああいうことだよ。楽しいとかテンションが上がるとかじゃなくて、とてつもなくダウナーだが、多大なる落ち着きと癒しを得ていた。コデインの次にまったりする物質だと言えば、みんなには伝わるよね?
それを母親の来襲によりすべてをぶち壊されたんだ。わたしは母へのイラつきを感じた。
しかし、悪いのは確かにわたしだ。姉貴に同じく、母にも翌朝には早く起きて、お勤めがある。眠れぬ夜に2時まで隣の部屋から声がしたら参るだろう。だから何も文句は言えなかった。
リスパダールを飲んだ。苦い。こないだ届いたばかりのアマゾンで買った(近所のドラッグストアより1000円安くてつい購入してしまった)抹茶カルアをほうじ茶ラテに溶かしたもので流し込む。
精神科をサボったし、出された処方薬も取りに行けてないので手元にはベルソムラがない。あれがないと眠れない。ブロチゾラムでは眠れないのは、もうこの一年くらいずっとずっとそうだったから、分かっている。
退院後、袋に包装されていた分が余っていた。(HHCだけで眠れた日が数日あったため)
湿気てしまうし、これらを消費せねばと思って三日分の睡眠薬を一気に摂取することにした。一日目は普通に飲み込んだが、フルニトラゼパムは鼻から吸うとよく効くと聞く。
プロチゾラムを噛み砕いた。この薬は通常、とても甘く。わたしは『砂糖より甘い』豊倉形容するのだが、リスパダールの苦味のせいで馬鹿になった舌の上では、ほのかに甘いけど、酸味を強く感じた。
フルニトラゼパム残り2錠はピルクラッシャーにかけて粉にして、ストローで鼻から吸った。この頃には酒のせいか、ブロチゾラム1.5mgのせいか少々頭がクラクラきてるのを感じた。何にも困ることなく、眠りに入れた。
父には長電話にも苦言を呈された。
いいじゃあないか、年頃の女の子は誰だって通る道だろう。ちょっと、わたしの場合それが遅く出ただけで……。
するとここからは母の独壇場が始まった。
要約すると、
・薬を鼻に入れる行動は異常
・夜遅くに電話されると母は眠れず目が覚める
・これでは一つ屋根の下で生活するのは厳しい
・家事の一つもせずに電話に明け暮れている
・わたしには生活リズムの改善を求む
これにわたしは反論した、というか自分の思いをきちんと伝えた。
・電話は唯一今の自分が楽しめる安らぎの時間。
理解できないかもしれないが、これ以外
何も気を紛らわす作業ができない。
(YouTubeなんかもなんも今はおもんない、
他の趣味にまったく意欲が湧かない)
・一日をただ過ごすために通話をやっている。
・ご迷惑なら通話もやめるし皿の一枚でも洗います。
・ただ、昨夜の通話は10年に一度の特別だった。
・生活リズム、わたし頑張っていたのですが?
出来ていませんでしたか?
特に生活リズムについては結構母親に追及してしまった。
昼間、家に誰もいない時にわたしがどのように過ごしているかが気になるが、干渉しすぎるのもよくないと思って見ないふりをしているらしいが。
わたしはこのところ7:30には起床するようにしている。
というのは、退院後に父と母と話し合って決めたことである。
はじめの数日は母に起こして貰っていたが、入院生活中も7時が起床だっただけあって、思ったよりもスムーズに身体がリズムを掴んで、起こされなくとも7:30前には自分で起きられるようになった。
睡眠薬が変わって眠れるようになったこのところは特に好調に思っていた。
しかし母は何度も「昼間はどうしてるか知らんけど」「昼寝してるかもしれんけど」と、朝は起きれているが家族のいない間に仮眠をとっているんだろ、と決めつけるような物言いで責めてきた。もっともっと生活リズムを努力しろと言うふうに言ってきたのでついに、「わたし、このところ7:30には起きてたよね?わたし、頑張ってなかった……?」と訊いた。
母は「頑張ってたよ」と言った。
そう言われて涙が溢れた。今、否定されっぱなしだったから。この頑張りをまた(起きれたその時も褒めて貰ってはいたんだけど、この家族裁判でそれを無碍にされたように感じた)認められて、安心したし、自分で自分のことを「頑張ったんだ」とやっと思えた。
それと今週は主治医にODとリストカットをやめるように言われていたので、ずっと我慢していた。
我慢我慢の日々だったのに、ほんの一日具合を崩して病院にも行けない、夜も眠らずに喋ってる、睡眠薬をヘンな飲み方した。このたった一日の行動だけで、地獄みたいに仲の悪い父と母が顔を揃えて、わたしを裁判にかけるのか?と悔しい気持ちでいっぱいでわたしは家族の前でも、入院中お得意だった癇癪を起こした。
でも父や母に当たるのも違うと思ったので「自分が許せない!」と吠えた。
母は、「自分たち親がいなくなった時、どうするのか考えちゃう」と言った。
そんなもん「生きなきゃいいじゃん」と言った。真意だよ。
そしたら両親は黙ってしまったし、しばらくしてやっと口を開いた母は「あんた言っちゃいけない言葉を言ったね」だった。
母は「薬のせいで具合が悪いんじゃないか」と言ってきた。
だが、わたしは否定した。
抑うつ的な思考回路は今に始まった事ではない。
病院にかかり始めたのは3年前くらい。成人してからだが、わたしは10歳を過ぎてから希死念慮を抱き始め、自信を喪失し、どうやって自殺しようかとぼんやり考えながら大人になってしまった。
「ずっとわたしはこうだよ」と言ったらまた親も黙った。
わたしのヒステリカルさに親は折れた。
というより、この裁判ではうつ病を治すことはできない。当たり前だが。
わたしは生活リズムの改善やOD自傷の我慢を引き続き続けるが、昨夜みたいに調子がガクリと落ちてしまう日があることを承知してくれと訴えた。
夜間の通話ももうしないと言った。
「うつ病を治してくれ」という言葉尻から受け取れるメッセージ以外、親の要求のすべてに善処しますと答えておいたんだからね。もうこれ以上何も言葉のかけようがなかろう。
「もういいね」母が父に言った。つまり、今のこの子には何を言っても無理って意味だ。
たった一度睡眠薬を鼻から吸ったくらいで家族裁判にすんなよ、たった一言「もう夜に通話はしないで、本当に眠れないから」と眠れない当事者が言ってくれれば住むことである。こんなおおごとにされて、わたしは心底不快だった。
母はわたしを抱きしめて泣いた。
自分の父親の葬儀でもこんなに泣かなかった母が「ママの片割れだから(遺伝子的に)」「いなくなっちゃやだよ」と言った。「ママが嫌なところ見せちゃったから」と過去をも回顧しだしたけど、それは10歳の頃のわたしに行ってやるべきだったな。
たくさん抱きしめて貰ったさ。
母がやっとわたしの身体から手を離して解放してくれた時、母の着ていたトレーナーにわたしの鼻水がベッタリと付いていて、真底ドン引きした。