第3病棟の3回忌

 あれ?今日なんだ。てっきり10月17日がわたしの命日かと思ったよ。去年書いた日記を貼りますね。ところで3回忌って書いちゃったけど3回忌って丸2年経った時にやるやつ?それ去年じゃん!

自殺して2年が経った。 - LOVEと死ねの狭間

 

 自殺未遂から3年経った。今の現状をお話しします。わたしは3年前の今日、ベンゾを大量に飲み意識混濁(自分では薬がキマっている意識がないので無限に飲む)。通っているはるきゅんのいる精神科に行ったら「週に3回以上ODしたら入院ね!」と言っているはるきゅんが待ち構えている……前に通っていたメンクリに駆け込むも、たぶん取り合ってもらえなかった(が、時間前に連絡をとったと言うことで警察の時事長徴収があったらしく「警察沙汰にした患者さんはもう診れません」とのちに出禁になる)。恋人に「メンタル安定には豆乳がいいよ」と言われて、大嫌いな豆乳を買った。

ところが?ここで家の鍵がないことに気がついた。

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わたしは買ったものを玄関に並べた。時間は真昼間。親が帰ってくるまであと何時間とある。

「家の鍵がないと言うことは、死ねと言うことか」

 わたしは出かける時に肌身離さず持っているぬいぐるみがある。父の過ごしている部屋の窓の扉が開いていたので格子の間からぬいぐるみを入れたバッグを父の寝室に押し込んだ。この時、もう死のうと決めたんだと思う。

 おそらく、縄は100均で調達した。単では細すぎるので二重にして結ぶ。おかしかったのが、救急病院から精神科に入れられる、手続き中に携帯が返ってきて、ご丁寧に『もやい結び』と調べていたところ、わたしは近所の、たまに子供も遊んでいるような人目の中はないような公園を選んでしまった。そこ以外首が吊れそうになかったから。頭のとち狂っていたわたしは恋人と通話を繋ぎながら首を吊っていたのである。

「自撮り撮った」

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 送った写真はこれ。首が縄にかかるすんでのところといったところであろうか。(この自撮りは危険なので保存している)

このあと恋人の耳元から「ンゴ!」みたいな声が聞こえてうご〜と苦しんでいた様子であった。

近所の人が気づいてこれは大変だと言ったと言う。

「青いものを吐き出している」と言っていたらしい。それはフルニトラゼパムやでな。

その方の迅速な動き・連絡によりわたしのことは救急・消防へと連絡が行き。病院に着いた時?には心肺停止の状態だったという。あと一歩だったのになぁ。しかし些細な処置をされて、わたしは生き返ってしまった。医療器具のカードで首を絞めて暴れたと言う話と、見舞いに来た弟に対して「誰だかわからない」と言ったらしい。ずっと車椅子生活だったらしいがそんな回かわたしにはない。気がついたら歩いていたし、わたしが自分の意識を取り戻してから数日もしたらはるきゅんの待つ精神病院に搬送された。そこで4ヶ月ほどの最悪な時間を過ごした。

 

 

 

 3年経ってみて、わたしは躁を頻回に起こすタイプではなく、一度躁転したために付けられたのが双極性障害という病名なだけで、今も長いうつ期が続いている。

 特にわたしは冬になるとうつがひどくて、家から出られなくなる。朝起きられないから、シフトを午後からにしてもらった。それでも身体は動かなかった。フルタイムで3年、休職してから時間パートで務めるようになって4年が過ぎたけれど、ついにわたしは1日も出勤ができなくなった。契約の更新は4月1日。それまでに体調が戻って職場に来られれば、と。事務員に言われたが。それも叶わず。わたしは4月1日から無職になった。休職はしたけど。無職になったのははじめてだ。

 

 処方薬は一年で結構変わったと思う。まさに今日診察を受けてきたわけだが。ベンゾを減らしたい主治医 VS ベンゾ大好きなわたしの戦いが繰り広げられた。去年はブログを読む限りいろんな気分安定薬を飲まされていた。リスペリドンやシクレストなどなど。でもこれらは「あなたにとって頭の甘子にしかなってないかも」という主治医の判断で、なくされた。今飲んでいる気分安定薬は炭酸リチウムだけだ。他がなくなったところで別に。わたしの生活に変わりはなかった。

 しかし、シクレストを減らしたからか?不眠で眠れなくなった。わたしとしては睡眠薬を増やして欲しいわけだが。主治医は何と抗うつ剤を増やしてきた。副作用の眠気でわたしを眠らす気だ。まずはトラゾドンというのを飲んだ。これはあまり意味を感じなかった。眠れない。そこで次に先生が出してきたのがミルタザピンであった。わたしの先生は絶対マイスリー出さないマンなのだ。このミルタザピンは眠りによく作用する。やがて、抑うつがひどいと訴えると「お好きな抗うつ剤あります?」と言われた。え!選べるの……?でも、躁鬱の患者に抗うつ剤は出ないものだと勝手に思っていたわたしは効果の高い抗うつ剤など知らなかった。「ではミルタザピンを一度最大まで増やしますか?」ということになったのである。ミルタザピンをMAX(ほんとうにMAXなのか?)に増やしたら、これまであった身体のだるさ、重さがマシになった。それから、これは先月からだが不安時に飲む薬としてレキソタンが増えた。パニックや不安・不穏のあるフォロワーに向けて「おすすめの安定剤はないか?」とツイートしたら、3件リプが来たのだが。3人ともレキソタンの名を挙げたのだった。ということを話したら、前にレキソタンの名をあげたときは縛っていたくせに、易々とレキソタンを出してくれた主治医。正直効いている気がしないが不安な時に飲める薬は多ければ多いほどいい。

 

 生活面は、たまにパソコンで、趣味で撮っている動画編集をやりたくない、やりたくない、と言いながらやり、そしてベッドに寝そべって(これがわたしの絵を描くスタイルだ)絵を描く。これのみ。これは体調のいい時の、わたしの過ごし方だ。

 友だちはたったの一人もいなくなってしまった。(幼なじみお友だちは別。どんだけ嫌いでも家族ぐるみの中だから)わたしの周りの人はわたしがうつ病すぎてみんなわたしに激昂して去っていった(理不尽)。わたしが他人を怒らせる才があるのか、たまたま激昂するようなタイプを依存させてしまうのか。突然関係を断たれてしまうことも少なくない。誰からも誘いがない(友だちがいないからね)。

 

 わたしが外出する用事といえば、スーパーに買い物に行くこと。はるきゅんが主治医だった時に、「作業療法的に料理をしたらどう?家から出ても、料理ができれば助けになるし」と言われたら入れることにした。毎週水曜日。今年で4年目になる。外食で潰れてしまう以外は、ちゃんと毎週使っている。

 わたしは台所が怖かった。母のテリトリーな気がして。中学生くらいの頃。料理に郷里を持ったことがあったのだ。だから母と一緒に料理を作りたい、教わりたいらと思ったのだ。が、母に頼んだら「イヤ」と言われた「だって面倒くさいだもん、教えるの」。以後、一度も料理を作りたいなどと言う意欲は湧かなくなった。次いで、わたしには『すごく家事ができない女』だという感覚があった。いや、ただ家事をしたことがないだけだったのだけれど。

 料理をしてみた。わたしの料理はすごく大雑把である。味見をする方が稀。計らずに(だって家にメジャースプーンとかないから)目分量で醤油やみりんや砂糖をどばどば入れる。これが意外にも家族に好評。九州生まれ。恋味の好きな家族からはわたしの調味料どばどば料理がヒットしたみたいだ。得意料理は酢豚である。

 

 貯金が、「あなたはうつ病です。入院が必要なので休職してください」と言われた4年前から半分に減った。正直、働けていないことにかなり焦りを感じている。

わたしのしあわせってなに?この腐った、離婚済みで家庭内別居しているような両親が住む家庭から出ること?どう働いて?わたしは前までお世話になっていた職場でまた働きたい。恩もある。わたしはあの仕事以外何もできない。

 

 突然ですが、好きな女の子がいるんです。(推し)彼女は双極性障害(多分複雑性?)PTSDなどわたしと同じような病気を持ちながら。わたしより5つも若い、超若者なんですけど。旦那さんがおられるんです。その方は料理は卵焼きしか作れないと言っていた。おそらく家事も何もしていないのだろう。旦那さんが仕事いっちゃった悲しい、お父さんお母さん会いたい(実家は自宅の県内の模様)。といつもツイートしている……。あるとか質問に答える動画を出していました。リスナーの方が「わたしも無職で焦っています。〇〇さんも無職と度々言っしゃっていますがこのまま無職を続けることにむいてどう思いますか(要約)」というような質問を取り上げた。その女の子はすごくこの質問に触れづらそうにしていたのだけれど、「私は、もう無理だなって。無職でいいかなって。思っています」と答えていた(気がする)。…………いいね、って思うんです。お若いのに、健常者の理解あるパートナーがいて。自分が働かなくても収入があって家計はなんとかなって。実家の父や母とも仲が良くて(私から見てると、その、「ODやめろ!自傷やめろ!騒いだら救急車を呼ぶぞ!」という関わりはちょっと。違うかなと思うけど)(彼女のPTSDは、おそらくツイートの内容から察するに兄(二人いるそうで、片方が悪い兄なのだそうです)から受けた暴力、虐げが今も彼女を苦しめている、と思われます)

 

 わたしなんてこの先、生きてても何もいいことなんかありませんよ。わたしは病名だけが同じの正反対だ。パートナーは頑張っても障害者雇用。それも何年先の話になるのか。わたしはもう働けません。あの頃のようには。わたしの職種の手取り知ってます?13万円です。独身の先輩方はみんな実家から出られなくて、いい歳どころか。もうとっくに。私の親よりも年上で、家に置いてきた自分の父母がどう過ごしているか心配だとか急に母親を病院に連れて行かなければならなくなったとか。これが福祉職の現状です。わたしもそうなるんです。手取り13万で家から出れなくて、ずっと父親から薬を管理され、ずっと母親から罵詈雑言を浴びせられて過ごすんです。これなわたしの人生なんです。

 

 早く終わらせたい。また薬増えなかった。死ね。

 

 

 

 

 

P.S.わたしの仮命日は10月17日でした。

 

 

 

自殺して2年が経った。

 公園で首を吊り、心肺停止になりそこから生還して2年が経った。あの時と今と、何か変わっただろうか。

 

 たぶん、何も変わってない。仕事に行く頻度も変わってない。いや、むしろ行けてないかも。週に二回。一日四時間の勤務。それを一ヶ月のうちよくても半分くらいしか出勤できていない。

 家族も特に変わってない。わたしが自殺しても特に変わりはない。これはありがたい。当たらず障らずしておいてくれる。まだ離婚しているのに両親は同居してる。いっそどっちかいなくなってくれた方がマシだと思うこともある。でもわたしが離婚に反対しちゃったから。きっとこうなってる。苦しい。

 医者は変わった。大好きだったはるきゅんが異動になり院長に引き継がれた。しかしこの院長がクソでわたしは治療のやる気をなくした。愕然としたのはわたしが「複雑性PTSDの治療がしたい」と言うと「複雑性PTSD?皇室の方がなってたやつね」と言ってそれから黙った。病気に対する知識がないんだなこの医者はと思った。今までにいただろうお前の患者に複雑性PTSD。いないわけがない。でもそういうケアをこれまで一切してこなかったんだなこの人はって思った。わたしは院長に信頼が置けず、並行して精神保健福祉センターに通うようになった。母親に薬物依存症の治療のために連れて行かれた施設だったがそこで今の主治医と出会った。主治医は物腰が柔らかくて分類するならはるきゅん系の、話しているだけでこちらも癒されるようなタイプの医者である。主治医がセンターを退職することになり、県内の病院に勤務すると聞き、市外なのでちょっと遠いが今はバスと新幹線と地下鉄を乗り継いで主治医の元へ通っている。

 薬物依存も変わりないような気がする。でも自殺を決行した日は『週に三回過量服薬が認められたら入院しましょう』と当時の主治医であるはるきゅんに言われていた。今は飲んでも週に一、二回程度。今の主治医曰くコントロールしながら薬を使えているとのことで、ヤク中ではあるが多少落ち着いてはいる……のかな?

 処方薬もガラッと変わったよ。まだこの頃は抗うつ剤が出てた。躁鬱の人って抗うつ剤飲んじゃダメなの??わたし今抗うつ剤出されてないんだけど。お薬手帳見直したら朝夕でワイパックス出てたんだ。良いなぁ。パロキセチンジプレキサ。でも今は全部気分安定薬になった。シクレストとリスペリドン(錠剤)と炭酸リチウム。これでほんとうに鬱に効くのかなぁって。ちょっと不安。全部どちらかといえば躁を抑える作用が強い薬な気がする。安定剤は朝にデパスを一錠だけしか出してもらえない。主治医がベンゾアンチなの。ベンゾ大好きだからつらい。

 病名はうつ病から双極性障害になった。いや?自殺した時からそうだっけ?病気はどうだろう。良くなったのかな。あんまり良くなってないと思う。未だにロープ買いたいなって思うもん(二年前まで100均に売ってたのにね)。死にたいなと思う。でも踏ん切りがつかない。あの時なんであんなに死に向かっていけたんだろう。ちょっとあの頃の自分を尊敬する。今のわたしには自殺するほどのエネルギーがあんまりない。この世にいても良いのかな。ってあんまり思えてもいないけど。嫌いだけど家族もいて、愛してくれる恋人もいて。この場所から離れることができない。

 

 何より一番変わったのが体重!13キロ太った!もう自己肯定感下がりまくり。デブスつらすぎ。

 

 

 

ずっと、愛しています

 妻が、旦那に最期に贈った言葉。

「変わらずずっと、愛しています」そう言って、妻は棺桶の上に白い花束を置いた。

 

 今日は葬儀だった。幼なじみの父親が急逝した。

ガタイが良くて、その身体のように大きな父性を持っているような、あたたかくてやさしいパパだった。赤ちゃんだった頃からわたしたちとは家族間で交流があり、この間、最後に会った時も。マンションの駐車場の抽選会で、マスクをつけた大男が手を振ってきた。まさかわたしたちに振っているとは思わないで、顔も見らずに通り過ぎようとしたら、俺だよ俺、と言って怒ってきた。今度北海道に出張で行くから、お土産を買ってくるからね。真に受けてなかったのに。ほんとうに、『白い恋人』を届けてくれた幼なじみのパパ。真面目な人だった。

わたしの母は「ただ眠っているだけみたい」、亡くなっているのが信じられないと言った。しかし、わたしの目には死者の顔に見えた。血色はすごく良い。でも、口が開いている格好が、不自然に硬直していて、たしかにこれはもう二度と目覚めないのかもしれないと思った。今日、たくさんのお花に埋もれた幼なじみのパパの顔を見たら昨日よりもっと涙が出た。

「よく頑張ったね。ありがとう。大好きだよ。ドライブに連れて行って。わたし、待ってる」いつも呼んでたあだ名を呼びかけて、わたしは別れを言った。

わたしが最後に入院した時。首を吊って入院した時。幼なじみのパパは、わたしをものすごく気にかけてくれたらしい。わたしを気分転換に、ドライブにでも連れ出そうか。そう言ってくれていたらしい。入院中にくれた幼なじみ一家での寄せ書きにも『バイクの後ろいつでも空いてます。(妻の名前)は乗ってくれません』と書いてあった。これがわたしにとって幼なじみパパの形見になるなんて。思わなかった。何故わたしは助かって、幼なじみのパパは助からなかったんだろう。わからない。妹を亡くした時の戸川純のような気分だった。この通夜と葬儀を過ごして、感じたこと考えたことはたくさんあった。

 

 わたしは、愛し合っている大人を知らない。わたしの家庭は仮面夫婦。親同士が思いやり、慈しみ合い、愛し合っているところを見たことがない。家族愛に夫婦間の愛はない。わたしは愛を知らずに育ってきた。でも、幼なじみは違う。幼なじみは傍目から見れば、息子二人も立派に育ち、兄弟仲も夫婦仲も良く。幼なじみは今日の葬儀でマイクの前に立ち自分たちを「家族バカ」と言った。すごくあたたかで平和な家庭だった。

でも、それにも終わりが来るんだと知った。愛を誓っても、いつかはこうして別れが来るのだということを、知った。目の当たりにしてしまった。永遠の愛なんて無くなってしまうんだとわかった。

 

 幼なじみパパの死を受けて、わたしは深く悲しんだ。式中はずっとずっと泣いていた。でもほんとうはもっともっとこの胸の内を表現したかったし、それを誰かに受け止めて欲しかった。でも、その時、わたしのそばには何もなくて、誰もいなくて、泣き叫ぶ相手がいなかった。わたしのヒスを受け止めてくれる人はいなかった。

幼なじみは泣きながら、最近結婚したばかりの奥さんを抱きしめていた。幼なじみの弟も、自分の彼女を呼び寄せて、抱いた。わたしも、この気持ちを誰かと共に分かち合って、抱きしめて、泣いてくれる人が欲しかった。もっと近くで、彼の愛を感じたかった。

 

 わたしの恋人は東京にいる。新幹線で4時間半の距離。涙を流したら、その涙が渇く前に、その胸に抱き止めて泣かせてくれる人が、ここに欲しいと思った。わたしは悲劇的な不幸の最中に、しあわせの一幕を見たんだ。見せつけられた。わたしには、それがない。彼らの持っているものが、なにもない。仕事、信頼、幸せで安心できる家族、居場所、ほんとうに、なにもない。

わたしはひとり、福岡の地で静かに泣きながら、一人で立ち尽くし、やがて黙って去るしかなかった。

 

ずっと、愛しています。愛だけでは。敵わない。現実に。

 

 

覚えてないんだね

 大晦日の車内。去年は病棟にいたけど、今年は娑婆で大晦日を迎えられた。我が家は毎年大晦日の日には朝から出かけて、夜に食べるご馳走の食材を買い、すこし離れたイオンモールまで行ってショッピングをするというのが例年のお決まりである。二年ぶりに行ったあのイオンからZARAが消えていたのもショックだけど、車内でのこんなやりとりもわたしはなんだか寂しかった。覚えてないんだね。

 

 コストコで食材を買って、祖母の家に運び込んだ。そしてお昼時。イオンに着く前に腹ごしらえをしよう、さて何を食べようかと車内で話していた時のこと。わたしがうどんの話をしたから、家族はすっかりうどんを食べる気になって、道中のうどん屋を探していた。その途中、車窓からコメダ珈琲店が見えた。

「前にコメダでお昼ご飯を食べたこともあったよ」大晦日の昼食をどこでとるか。イオンモールのフードコートで食べることもあったし(早めに昼食をとっておかないと夕食が入らなくなるため今年は却下)、コストコで男たちはホットドッグを、わたしたち女はクラムチャウダーを(あんまりたくさん食べすぎると夜のご馳走が食べられなくなるから)食べることもあった。しかし三年前の大晦日、わたしたちはコメダ珈琲店で昼食をとったことがあった。

しかし、信じられない。母親が口を開いた。

「そんなの、全然覚えてない」

え?あのコメダ珈琲店での風景と家族の最悪の団欒を覚えていないだって?

わたしは弟にも尋ねた「コメダでお昼ご飯食べたことあるよね、弟ポン」

弟ポンは「あったね」と言った。ほら、やっぱり。子どもたちは覚えている。

 

 三年前の大晦日、食事の途中に父親が口を開いた。

「転勤になって九州営業所になった。福岡に戻ります」

するとそれを聞いた母が即座に「有り得ない、絶対無理」と言い放った。

この時、父は熊本にいた。わたしたち家族を福岡に置いて、父は単身赴任をしていた。転勤が決まり、福岡にある九州営業所に配属されることが決まったと家族に告げた。ところが、母はそれを拒絶した。

「絶対住めない」

一緒には住めない、母が冷たく、ヒステリックに鳴いた。明日は元旦。大晦日の買い出し。我が家が一年で一番のご馳走を食べて、年末年始のセールの中で目一杯ショッピングして。楽しい大晦日。その始まりに、母は家族の団欒を一瞬にして台無しにした。我が家に戦慄が訪れた。その地を、あの光景を。コメダ珈琲店を。覚えていないだって?

 

 この翌日、2021年の1月1日。母は話があると言って家族をリビングに集めた。もう父親とは暮らせない、私は出ていくと宣言した。わたしも弟も泣いて嫌がった。わたしの家庭はもうずっと両親が仮面夫婦。父親のことを母親は無視をしたし、キツく当たった。そのヒステリーをわたしたち子どもが浴びることもあった。見ているだけで不愉快だった。父親はいつかうつ病になって自殺するんじゃないかと不安だった。母はいつも怒っていて不機嫌なのでわたしは息を吐く間も無く、家庭の中に安心などなかった。いつかこの日が来ることは分かっていたけれど、この日が来ることがものすごく怖かった。ほんとうに、絶望した。

この日からわたしの人生は転落を続けている。両親の離婚がショックで、わたしは市販薬をバリバリボリボリ飲むようになった。ベンゾで日々のつらい記憶を消した。毎日死にたいと言って薬を食べ続けた。それを見ていた当時の恋人は、わたしを恐れてわたしを捨てた。過去に自分も希死念慮を抱いていたことがあった、それを思い出してしまうと言って泣かれた。「ほんとうに死のうと思ったことがある?」そう言われた日、わたしは博多駅で首を吊ろうと思っていた。しかし彼があんまりにも可哀想に泣くもんで心配になり、さようならと去っていく彼につきまとって自宅とは違う行き先の電車に乗った。知らない駅まで、彼を見送ったら呆気に取られた気になって、首を吊らずに家路についた。健全な家族(健全ではなかったけど、わたしは健全な家族でいられるように、両親の間に揉まれながらずっと努力して来た)と好きな人を失ったわたしは荒れに荒れ、毎日薬をジャラジャラと飲んでいた。メンクリからは過量服薬と自殺企図が問題になり追い出されて今通っている入院施設のある精神科に。そこで初めてうつ病という病名がつけられて、そのままはじめての入院に。この時の大うつがまだまだ続いていて、まだまだ生活はままならない。仕事に毎日は通えないし、まだ過量服薬に逃げる癖はある。いや、ほんとうは家族が破綻した幼い時からずっと、わたしはほんのりと死にたいと思っていた。

 

 ほぼ5年手帳、2021年から始まっている。

『家はメチャクチャ。父が熊本から家に帰ってくる。ママは出ていくと言っている。私は……どこに身を置けば良い?こんな日に。離婚決定!!!サイテー!』

ここからわたしが人生から転落していく様が、つぶさに記されている。わたしは、まだ忘れられない。三年前のあの日のコメダ珈琲店のことも、守りたかった家族が、指の隙間からすべりおちて崩れていったあの瞬間のことを。

 

 

 

自撮り上げるのに……?顔面コンプの話

 昨日の夜中、恋人の前で大泣きしてしまった。自分の容姿に自信が持てないからである。自分と他者とを比較してしまった。たまたま、話の流れで話題に上がった女の子がいた。あの子はいいな、顔もかわいくて、それを周りからもしっかり評価されて、才能もあって。それに比べてわたしといえば、周りの人に容姿を褒められることはあっても、ただそれだけ。SNSでのわずかなフォロワーのぬくぬくした狭い世界で、すこしチヤホヤされるだけ。しくしくと声を上げて泣いてしまった。泣いている間に、気がついたら寝てしまっていた。

せっかく美容院に行ってかわいくしてもらったのに。今日のわたしはかわいいんだって、うきうきで帰ってきたつもりだったのに。

 

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 目が覚めて昨日の通話で泣いてしまったことを思い出した。自己嫌悪に陥った。夜分の通話ははるきゅんの命令で禁止されている。しかしそれをこっそり行っている。親にバレぬように小声で、息を殺して。そんな恋人との大切な時間を泣いて潰しちまった。

 

 昨日の涙は、そもそも話題に上がった女の子への憧れと嫉妬に近いものがあった。一時期片思いフォローをして、10年くらいはぼんやり彼女のことを見ていた時期があった。わたしは彼女のことが好きで、フォローしていた。

 

 しかし、自分の容姿に自信が持てないことへの根底に、中学時代の記憶があったことをふと思い出したのである。

わたしの中学時代はまさに暗黒時代であった。

わたしの抑うつは小学校六年生あたりから始まった。両親の不仲が加速したのである。小学校高学年になったあたりから、両親が家庭内でよく喧嘩をして話し合いをしていた。そしてやがて、二人は口を利かなくなり、母は自宅ではいつも機嫌が悪く、わたしの父親を拒絶するような態度を取り始めた頃。そして中学生になり、学内カーストという壁にぶち当たった。わたしは絶望的に運動神経が悪かったため、美術部に入部した。あとはお察しである。中学一年生の頃は、まだ『リストカット』と言う概念を知らなくて。頭のあまり良くなかったわたしは、テストの点数が悪いと自己嫌悪に陥って指の皮を引っ掻いて剥いて、自傷を行っていた。わたしはクラスに友だちがいなかったため、教室内でずっと無口でいたら、彫りがやけに深い顔立ちのせいもあるのだろう。ハーフに間違えられ、クラスメイトから「日本語、話せる?」と声をかけられるほどにわたしは人と話せない学生時代を過ごしていた。

 

 そして迎えた中学二年生。わたしは晴れて幼馴染のSちゃんと同じクラスになった。Sちゃんはほんとうにすごい。驚くなかれ、わたしの顔面を褒めはやすフォロワーたちよ。わたしがいままで出会ってきた女の中で一番顔がかわいい。わたしの100倍もかわいいのである。男子は誰もが彼女を高嶺の花だと夢見た。しかしかわいいだけに止まらない。勉強ができて学年で一桁はザラ、運動神経も抜群でバレエを舞い、バク転をしていた姿が懐かしい。溌剌としていて明るい性格で友だちもたくさんいて、彼女は人気者だった。いっしょにいて楽しい。非の打ち所がない人間とはまさに彼女のことである。

彼女は学校で太陽のように輝いていた。

しかし、その隣にいた、勉強もできない運動は絶望的。顔も中途半端なわたしは。彼女の陰になったような気分だった。彼女と過ごす時間は楽しい。しかし、強烈な劣等感を抱かずにはいられなかった。

Sちゃんは先生たちからも一目置かれていた。担任は生徒会に入っているSちゃんにデレデレで、贔屓される様をいつも隣で見ていたわたしは、常に病んでいた。

今は地元を離れて東京の大学に通い、そのまま東京で就職をしたSちゃんとは、年に数回しか会えない。うちらの友情は、あの中学の時の二年四組を共に過ごした一年間だけでは覆らないし、なんなら忘れかけていたけど。当時のわたしは、いつも胸に翳りを抱えて毎日、Sちゃんの隣で笑っていた。なんでもできてみんなからの称賛を浴びているSちゃんを見ていると、わたしは空気にでもなったような、透明人間になったような、そんな心地だった。わたしの居場所は二年四組にはない。ここにはない、どこにもない。と、いつもいつも思っていた。

 

 わたしに強烈なコンプレックスを植え付けたのはSちゃんと過ごした二年四組の時間だけではない。

わたしのそばには、さすがにSちゃんには劣るが、もう一人容姿端麗の者がいた。それは、母親である。

わたしの顔を称賛してくれる者なら容易に想像ができるかもしれないが、わたしの母親はまさにその一言で形容できるほど『美人』なのである。とはいえ、わたしは母親似ではない。かといって父親にも似ていないが。

母親はぱっちりとしてキリッと、そして凛とした派手な目元に高くて綺麗な鼻を持ち、唇も良い塩梅にぷっくりと分厚い。もうすぐ50歳になるが、一緒にいると姉妹に間違えられる。街に出たり、入院している病棟でも母はわたしの姉に間違えられた。誰に紹介しても皆がわたしの母に「とても美人」と言う。高校時代は、同級生にわたしの母のファンが(もちろん女の子だけど)湧いたほど。そんな母親の隣にいたら……。

ミドリカワ書房という人の曲に『顔2005』というものがある。整形をするという決意を母親に話す、という曲なのだが。自分の顔に自信を持てないことに、"だけど ママは綺麗だから 絶対わからないわ"という節には共感したもんだ。

 

 わたしは第3病棟になって、最近になって、やっとわたしは他者から「かわいい」と称賛されることもある顔なんだ、と自己評価を改めることができた。これも自撮りにいいねをし、時にはリプで言葉で褒めてくれるフォロワーたちのおかげである。第3病棟になるまでわたしは自分のかわいさを知らなかった。称賛はいつもSちゃんが、そして母が、受けるものだったからである。わたしをわたしとして承認してもらえる体験がなかった。

まだ、わたしの中には自分の容姿に自信を持てない自分がいる。「かわいい」とは言われても。どうせわたしはちょっぴりかわいいだけで。さほど優れてない。一番かわいいわけではないと知っているからである。

気が向いたらでいい。フォロワー各位にはどうか、わたしの顔を見たら。そしてそれを良いと思えたら。それを伝えてくれると嬉しい。リプライで言葉をくれとまではいわない。いいねでも充分である。わたしはわたしなりに、この危うい自己肯定感を安定させてゆくから。

 

 今朝は彼が早くに起きてきて、たくさんかわいいかわいいと褒め、大好きだと言い、あやしてくれた。

 

 

 

 あーあ、そういえば。はじめて入院した時、病棟で「べっぴんさんだね」と複数の男性患者から褒められ褒められ、そして執拗に付き纏われてたことを思い出した。あれがわたしのモテ期。最悪だ。

精神保健福祉センターに相談に行ったお話

 母親が市外の薬物依存症の治療プログラムがある病院に電話したが、プログラムには集団で参加するものがあり、男性しかいない。それもイリーガル系の異邦薬物依存症の方々ばかり。病院の職員さんから「若いお嬢さんですから、負担が大きいのでは」と言われて母も渋った。わたしは入院していた精神病棟にいた若い女性患者につきまとうストーカーたちの顔を思い浮かべていた。あんなのがまたいたらたまったもんじゃあない。(だから前回の入院はカーテン部屋がないが、ストーカーたちから逃れたくて第4病棟に居座ったのであった)

 その病院が母に勧めたのが、市の精神保健福祉センターに薬物依存症の相談をしに行くことだった。母は自分で予約をとり、その後に「だいさんちゃんが良ければどんなところか一緒に行ってみる?」と誘われた。困っているのはわたしなのだし母はさっぱりわたしの現状を理解していない。勝手な相談をされても困ると思ったし、誰かにわたしの話を聞いて欲しかった、助けて欲しかった。

 

 母の運転する車に乗せられて連れてこられたのは見慣れた地下駐車場だった。ここには夜間・休日急患センターがあり何度か世話になった。大学時代は実習中の休日に熱を出して、慌てて受診したり。社会人になってからも嘔吐恐怖症でパニックになりゲロが止まらなくなりしんどすぎて夕方連れて行ってもらったのがこの急患センターだった。同じビルの別のフロアに『医師会』と書いてあったり、ビル全体が医療と福祉でできているようだった。

 

 精神保健福祉センターに母が「こんにちは〜」と言いながら入る。何故か遠くの方から「お疲れさまです」と聞こえた。施設の関係者と間違われたようだった。用件を尋ねにきてくれた男性に本日予約を取った者ですと母が伝えると、すぐにワイシャツ姿の男性が現れて名を名乗った。この人は医師だった。少し珍しい苗字をしていて母がその名前を反芻した。わたしはここでおやおや、と思った。もしかして、🐰先生ではないか?

🐰先生は、わたしの元某フォロワーの元主治医であった。彼女は陽性転移をしこの医師にガチ恋していて不倫関係を匂わせていた。彼女が上げていた写真に、この目の前の医師は風貌が似ていた。マスクをしているから、この時点で同一人物とは断定できないけど、と思った。しかし元某フォロワーはたしかに、現在🐰先生はわたしの住んでいる県にいると言った。わたしは彼のフルネームを特定し調べたところ勤務先はてっきりもっと都会の方だだ思っていた。医師はわたしたちに苗字しか名乗らなかったが、確かに市のホームページに🐰先生の名前を見つけることができた。まさにこの精神保健福祉センターにお勤めであることがわかった。この医師が件の医師に違いなかった。

 

 しかし、あの元フォロワーの気持ちがよくわかった。医師はすごく薬物依存症への理解が深く話しやすかった。わたしはこの日、特に自分から相談したいことなどなかった。なので、医師からの質問に淡々と答えていったわけなのだけれど、すごく流暢に、そして必要な情報を聞き出されていったのである。わたしはこの精神保健福祉センターでも、味方になってくれる人がいなかったらどうしよう、と思っていたのだが、医師は寄り添ってくれた。わたしのような人々をたくさん見てきたのだろうなということがわかる。わたしは、この人が主治医だったら良かったのにと思った。何故この人はこんなところにいるのだろう。どこかの病院にいて薬物依存症の治療に当たってほしい。わたしの住んでる市内には、依存症の治療を掲げている精神科はあっても、アルコールやギャンブル依存で。薬物依存症のプログラムを実施している病院はなさそうである。修羅の国の中でもガラの悪い地区なのに意外である。

 この先生の治療を受けたいと思った。わたしといざこざがあった末にアカウントが凍結してしまった某元フォロワーが恋に落ちるのも納得の、癒しと安心感があった。ま、はるきゅんには負けるんだけどね。彼女が上げていた写真で見るより実物の方が(マスクはしてるけど)ハンサムに見えるし、しなやかで綺麗な指でキーボードを叩きながら記録を作成している。その左手の指にはしっかり指輪が光っていた。

 

 一時間ほど医師と母とわたしと三人は一室にいた。

 わたしは先日苦しすぎて、障害者基幹相談支援センターに行った際に、自分の現状をまとめて文書にしたものをこの日も持参していた。しかし隣に母がいる手前、この秘蔵の文書を取り出す勇気がなかった。家庭環境のことも書いていたから到底母親に見せられるものではなかったからである。しかしこれには後悔している。医師に、わたしが今家庭でどのような奇声の元で暮らしているかという前提が伝わっていないからである。これがこの日一番悔やまれたことである。

 

 まず、医師はわたしに何か相談したいことがあるかと尋ねた。わたしは特に話したいことはありませんと言った。次に医師は母に相談したいことは何かと尋ねた。母は「薬物依存症の治療ができる病院を探している」「快楽のために薬を飲んでいるのではないか」「そこが依存症のラインを超えているのではないか」と不安を口にした。口調はまっすぐ。強かった。

そして医師は説明を始めた。薬物を乱用する人には二つのタイプがあって、一つは母の言うように快楽を求めて薬を使用するパターン(この快楽への興味が薬物乱用への入口になるとものちに言っていた)と、もう一つは生きづらさからの逃避として薬物を使わざるを得ないパターン。現在のわたしはもっぱら後者なのだが、希死念慮から逃避する手段を完全に禁止にして奪ってしまうと、希死念慮から逃れる手立てがなくなってしまう、というようなことを。医師はよりわかりやすい言葉で母に説明した。この説明がわたしには非常にありがたかった。

 

 医師にどこの病院に通っているか、どのくらい通っているかを問われた。3年ほど通っていると答えてしまった。正しくは丸2年通って3年目になるといったところだ。

医師は、「3年も病院に通うってすごいことだと思うんだけど。それだけ通い続けられるってあなたにとって良い場所?お母さんは別の病院を探してらっしゃるみたいだけど病院が変わってしまうことについてはどう感じるかな」というようなことを訊かれたと思う。

なのでわたしは、今年度の4月で主治医が異動になり、前の主治医は気が合って好きだったけど今の医者はあんまりなので病院が変わっても構わないと言った。

 

 ここからは医師によるわたしへの尋問が始まった。

どのお薬が好きか、と問われたので「コデイン系が好きです」と答えた。商品名だと何かな?と問われたので「トニンとブロンが好きです。あと、メジコン」と答えた。

「デキストロメトルファンか。コンタックの時からやってた?」と医師が言う。わたしはコンタックは飲んだことがない。

メジコンOTC化してからって感じかな」と医師が言うので、はいと答えた。

「飲み分けとかはあるのかな」

メジコンはより酩酊感が欲しい時に飲んで、トニンとブロンはつらい時に飲みます」

母親が隣にいる中薬を語るのは気持ちとしては憚られたが、わたしは救って欲しくてほとんどの質問に素直に答えてしまう。

「もしかしてレスタミンも好きだったりする?」

「いいえ、レスタミンは合わなくて好きじゃないです」

医師の口からレタスの名が出てくるとは思わなかったのでびっくりした。レタスが好きか尋ねたのは、レタスODは意識が急にシャットダウンしてしまうことがあるらしく事故に繋がることが多いから、という懸念から尋ねたらしい。

「処方薬だと何が好きかな?」

「ベンゾ系が好きです」

わたしの隣には知人のうつ病経験者から『ベンゾ系は悪』と刷り込まれた母が隣に座っている。

「ベンゾのどれが好きかな」

デパスアルプラゾラムです」

マイスリーは?」ここでも医者の口から自発的にこちらが話題にあげてない薬の名前が登場するのでびっくりしてしまう。まるでOD当事者のように知識がある。

「出してもらったことがないので……」

「良い病院だね」

「まあ……。気にはなるんですけどね」噂によるとマイスリーはたくさん飲むと目の前でパレードが開催されるらしい。実は一番飲んでみたい薬である。

デパスは何mgあったら一日足りる?」

「……5mgくらい欲しいです」

「今どのくらい処方されてるのかな」

「1mgです」

「それは0.5mgを2回みたいな感じ?」

「いいえ。一日一回1mgです」

「……それは、少ないよね。足りないよね」

「足りないって訴えてるんですけど、出してもらえません」

「訴えてるんだ……。依存症の本当に酷い人になると一日に何件も内科を回ってデパスをもらう人もいるからね」わたしだって保険証が手元にあれば病院をはしごするさ。(こういうところで、わたしが規制だらけな生活を送っているという情報を医師にお渡しできなかったのが悔しいな、って思う)

 

 他にもいくつか質問を繰り返し、医師は「たしかに薬物依存症ではあるかもしれませんが。今のところすごくコントロールしてお薬を飲めてるな、すごいなって思います」とわたしの現状を説明した。

「薬のことで娘さんと衝突したりするのはお母さまも苦しくないですか?」という医師の問いに母はまたも強い臨戦態勢の口調で「そんなことよりも身体が心配です。前みたいなことはもう……命が」と、答えた。数ヶ月前にベンゾODをしたところ解離を起こしその間に首を吊ってしまって救急搬送され入院していたことは、どんな脈絡で尋ねられたかは忘れたがこの目の前の医師にはお伝え済みであった。

「じゃあ日頃から死にたい気持ちがある?」

「はい」

「それはいつぐらいからかな」

「小学校6年生くらい……」

「明確な時期が出てくるということは、何か出来事があったのかな。……お薬をたくさん使う人の中には自傷行為だったり、過食嘔吐をしてしまう人も結構いるんだけどどうかしら?」この医師、やたらと『どうかしら?』もいうものの尋ね方をする。それが耳に焼き付いて離れなかった。物腰が柔らかく感じられる。

自傷行為はありますが過食嘔吐はないです」

自傷行為は何をいつからしてる?」

リストカットを。中学生の時からです」

自傷行為って最初は人に気づかれないようにやる人が多くて、だんだん派手になって見つかっちゃっておおごとになっちゃう人が多いんだけど、第3病棟さんはどうだったかな」

「最初は太ももにしてたんですけど。入院した時に自傷で手に引っ掻き傷を作ってしまって。そこから腕にするようになりました」

 

「今まで病院ではどのような診断を受けてきましたか」

「最初は……別のメンタルクリニックにかかってパニック発作を伴う嘔吐恐怖症と言われたんですけど、そのあと薬物乱用がみられて『うちでは診られません。入院施設のある病院へ』と言われて。今の病院に変わった時に一旦うつ病と診断されたんですけど今は躁転が見られたので双極性障害に名前が変わってます。あと、境界性パーソナリティ障害とも言われました」

パニック障害うつ病境界性パーソナリティ障害双極性障害の中で自分のことを表している病名だな、と一番感じるのはどれですか」

うつ病とボーダーです」

「どういうところがボーダー……境界性パーソナリティ障害だと感じる?」母に聞かれてもよくわからないように言葉を変えたのに訂正されてしまう。

確かに。自分では当時ボーダーの診断が降りたことに納得と安堵があったのに。どこがボーダーっぽいかと問われたらイマイチ、うまく説明できない。

「見捨てられ不安が強いと言われました」

うつ病になったきっかけは何かあるかな」

わたしは母が隣にいるが堂々と言ってやった。「両親の不仲です」

 

「お薬の飲み方についてはどう思ってるかな。必要な時には飲みながら、生活していきたいかな。それとももうスパッと辞めたい?」

「飲みながらが良いです」

 

 医師は、治療の手段の一つとして福岡市にある病院の名を上げてくれた。そこで入院して薬物依存症治療プログラムを受けてみること。

それから、薬物依存症とはまた別の病院でも良いので、双極性障害の治療を集中的にやっていくこと。

「僕だったらお薬を飲みながら生活を続けてもらって、徐々にお薬が手放せるようにならば良いね、って思うかな」と医師が言った。

「でも、今は主治医の指示で薬は全部親が管理していて、薬を買っても怒られるし」医師は薬を増やしてもくれないし、お金も親が管理しててそもそも買うのも困難だし。

 

母はわたしを精神保健福祉センターに通わせるつもりだったらしい。わたしもそのつもりでいた。

しかし、精神保健福祉センターは通うようなところではなく。大抵一度きりの相談を受け付けているという立ち位置にあるらしい。

母親は本日開催されている『薬物依存症の当事者の家族教室』みたいなものに参加するらしく「僕もいるので声かけてもらっても全然良いですよ」とは言ってくださったけれど。

母も帰り際に「良い人だったね。だいさんちゃんがお話ができる場所があれば良いなと思ったんだけど毎週とかは通えないんだね。ああいう先生が病院にいてくれたら良いのにね」と言っていた。精神科医(わたしの歴代主治医)を目の前にするとすぐに敵認定して身構えてしまう母も、この日話した医師は良い人にうつったらしかった。

 

 

帰宅したら、母親の懺悔が始まった。わたしが「両親の不仲でうつ病になった」と言ったのが刺さったのであろう。

「若くしてだいさんちゃんを産んでさ、その日から突然お母さんになって……」もうわたしの歳の頃にはわたしの母親はわたしを産んでいた。育児に追われ家事はワンオペ。実はモラハラ気質だった父への嫌悪感、そして不機嫌な態度をとっていると父が怯んで話しかけてこないことから防衛のためにヒステリックに振舞っていたことを語っていたが、わたしはいつも自分が計画された望まれた妊娠ではなく、デキ婚で授かった子どもであることに負い目を感じるのである。わたしさえいなければ母も狂わなかった。父も母に虐げられなかった。弟はもちろん生まれずに、面前DVなど受けなかったのに。

謝られてもわたしのうつ病は治らない。薬物依存も治らない。

 

なぜ主治医はガチガチに親の監視下で生活させようとしたのでしょうか

 わたしの苦しみの本質を理解してくれてないのかな、と思った。わたしの心のことで親に干渉されたくないのである。

 

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 サイレースデパスを飲まずにこっそり貯めてたのがバレた。

もうわたしは終わりです。人生を生きたくありません。

 

 退院の条件として、残っている薬はすべて処分すること、薬は親が管理すること、親の前で薬を飲むこと を提示され、これを承諾できないのならば退院はさせられないと当時の主治医(はるきゅん)に言われ泣く泣くこれを飲んだ。(はるきゅんのことはとても信頼していたが、この一方的に決められたわたしを追い詰めるような退院後の約束については恨みがある)

 

 母親の目を盗みつつ手の中にサイレースを隠し。デパスは朝食後に服薬なので、その時間はまだわたしは睡眠中なので。母が仕事へ出かけた後に食卓に置かれたデパスを回収し、溜め込んでいた。といってもサイレースデパス10錠ずつくらい。しかしこれを毎日一粒こつこつと貯めるのは大変であった。

 

 一昨日は母の監視の目をくぐりぬけることができずサイレースを手の中に隠していたことがバレてしまった。

「『頓服用』のデパスもテーブルに置いといて」と頼んだところ母は渋り「置いたらすぐ飲むやん」と文句を言われた。じゃあなんのための頓服なんだよ。

 

 

 過量服薬をしたら入院を考えましょう。

これも退院計画書に書かれたお約束だった。

金銭も退院後から医師の命令で親が管理。親はその存在に気づいてないが実はわたしにはタンス貯金があった。そこから市販薬をこっそり買ってはこっそり飲む生活。あまりラリってるのが表に分かりにくいトニンとブロンのタッグがお決まりだ。(本当はメジコンが好きなのだが、これを飲むと顔色が灰色になるのでバレた)

しかしこれもまた親にバレてみろ。何をされるか、何を言われるか分からない。

 

 昨夜もう食卓には『朝食後のデパス』は置かない、貯めるから。と親に宣告され、今朝は早速叩き起こされた。食事を食べさせられ(食べたくなどなかった)服薬させられた。

先日のデパスサイレース没収事件で希死念慮が高まっている。本当は頓服も飲みたかったが母はわたしが頓服を飲むことに渋い顔をする。デパス二錠を同時に服薬なんてさせてもらえないだろうな。

 

 

 

 

 このガチガチに親に縛られてODできない環境を作り出し、追い詰められたわたし。生きる気力がなくなった。はて、どうなってしまうのやら。