精神病棟での年越し

 3年前の入院生活。わたしは10月に自殺を試みたところを近所の人に発見され救急病院に搬送。その後数日してサイレンを鳴らさずに。静かな救急車に連れて行かれて、かかりつけの精神科に転院することとなった。わたしはてっきり、大晦日までには家に帰れるもんだと思い、何度も主治医に交渉したが。先生は笑顔でやんわりとわたしの話を交わし、せめて年末年始に外泊をと言ったが。許してはもらえなかった。

 


 わたしの家は、毎年家族で大晦日は朝から出かける。それが一年で一番楽しいお出かけかもしれない。母方の祖母を車で拾って、みんなで一緒に何か食材を買いに行く。一年で一番贅沢をする日。コストコに行ったり、市場に行ったり。肉や刺身。食後のデザートなんかを。各々好きなように買っていく。そして食材を確保したら、今度はショッピングモールなんかに行って。みんなで一緒に、はちと、身動きが取りづらいので父と弟、そして祖母と母とわたしと男女で分かれてショッピング。祖母がいつも「ひとり5000円まで出しちゃる。お年玉よ。それを超えたら自分で払いなさいね」と言って。我々孫に洋服や靴を買ってくれる。わたしは毎年祖母からのお年玉。新しいお洋服を買ってもらうのが好きだった。わたしの。お目当ては……大好きな𝒁𝑨𝑹𝑨 。

 そして夕方には祖母の家に帰ってきて、ご飯を炊いて、刺身を盛り付けて。ホットプレートで肉や野菜を焼く。この日は誰でも祖母の家に出入りOK。ご近所さんが来て食事をしたり。わたしもお友だちを連れてきたり、その時交際していた彼氏を連れて行ったこともある(その後、即破局したが)。0時になって、あけましておめでとうになると、太鼓の音が聞こえてくる。祖母の家は神社が近く、神社には初詣に、と参拝客が訪れる。そこで太鼓鳴っているのである。近頃はもう、その近所の神社にしか行かないが。以前は、父と弟と3人で(祖母は眠り、母はひとり先に帰る)その日の朝が来る前に三社参りを済ませていた。お参りに行った日は2時ごろ帰宅して、少しだけ睡眠をとり。昼頃になって、今度は父方の実家に行く(昔は母親もいたが、ここ数年はいない。両親は同居してるけど、離婚したし。母の行く義理はない)。ここで我々はおせちを食べる。祖母が毎年お餅を焼いてくれて、お雑煮に入れてくれる。お腹が満たされたら、祖父母と父と弟とわたしは墓参りに行く。わたしがこのまま独身だったら、そこに入れられるであろう、わたしの苗字のお墓はそんなに遠くはないのだが。祖母の実家のほうの墓所が。市内とはいえかなり遠くにあり、墓を二軒回るだけなのにかなりの時間を要する。寝不足と、墓参り疲れですっかりくたびれて、家に帰る。それがわたしの大晦日と正月の、揺らぐことのないルーティーンだった。

 


 それなのに、わたしは病棟の中。家に帰してもらえない。

 


 大晦日が来た。今日の夜勤は誰だろう。ああ、あの、体格のいいくまさんみたいな、若い男性看護師だ。今のわたしくらいか。いや、貫禄はあったからもう少し上かもしれない。そのくらいの年頃の看護師さんと……あと一人は忘れてしまったな。でもこの看護師さんがその日を主に取り仕切るリーダーで、たぶん他のもう一人の夜勤の看護師さんもお若い方だったのだろう。この男性の看護師さんが「しょうがないな〜」と言った。ホールにいたみんなに聞こえるように。

「今日は大晦日やけん。紅白つけとっちゃるね」

 いつもは21時に消灯となる我が病棟。もちろんテレビ(小さなテレビが1台だけホールにあり、天井からかなり高い位置に吊り下がっている。ブラウン管ではないのにやけに分厚い)も消灯時間になったらおしまいである。が、この日は特別に21時以降もテレビを見ることが許された。

 患者たちは前々から「大晦日の夜勤だれ?」と気にしていた。看護師によっては、消灯時間絶対厳守で、テレビを見せてもらえない人に当たる年もあるのだろうなと、予測した。この日夜勤だった看護師二人は、お若くて、やさしくて、融通が利く人々だったのだ。

 正直、この年の紅白歌合戦が一番おもしろかった。何故ならば、出てくる人をみんな知っているから。病棟では、テレビがホールに一台。それしかないために、みんなでチャンネルを譲り合わなければならない。わたしは暇ですることがないため(母親に本をねだりまくったが、すぐに読み切ってしまうので、すぐに暇になる)、いつもホールに出て、興味のない番組でも。ずっと見ていた。あの病棟では音楽番組がかなり好まれていて、必ず音楽の番組がついていた。作業療法の時間も。作業療法士さん何にもしてませんやん!って感じだが。音楽鑑賞という名目で、過去の音楽番組の録画などを延々と見せられていた。

 そうしたことで、わたしはこれまで世の流行のJ-POPなんかにはかなり疎かったのに。ばっちり、テレビで取り扱われる流行の音楽を知ってしまっていた。あの年はOfficial髭男dismの『Subtitle』が流行っていて、わたしがラジオ持ち込みの許可が出てからと会うもの、ずっと『今週の第1位』に君臨していた。レコード大賞を取ったのはSEKAI NO OWARIの『Habit』だった。レコード大賞の日はもちろん21時消灯なので我々患者は早々に寝かされ対象を知らぬまま翌日を迎え、看護師が教えてくれる謎の噂をたまたまわたしも耳にしたのである。

 


 大晦日、いつものように20:30に眠剤を飲まされたわたしは薬が効いて、年を越すまではテレビを見ていられず、眠くなり病室に戻った。

Vaundyが幾田りらちゃんとか。女の子数名と一緒に歌っている姿は見れたけれど、Vaundy単体の歌が、起きている間に聞けなかったので残念だった。藤井風の圧倒的パフォーマンスは見届けられたので良かった。

 


 翌日の朝だが昼だか。「あけましておめでとうございます」という、印刷されたプリントと共に、なんと、なんちゃっておせち(内容は忘れたが、おそらく一年で一番豪華な病院食だ。ジジババばかりの病棟なので、献立がやけに渋く。焼き魚や煮魚が苦手(寿司は好き)なわたしは、毎日昼か夜に魚が出るタメかなり苦しんだ。肉が出てきても美味しくはない。あんなに不味いものを出していたら、食べる意欲なんか湧かないだろう。と思いつつ、気分安定薬のおかげか食欲だけはあり、もりもり病院食を食べていた。食べることしかやることがないのである)が出てきた。あの時の「あけましておめでとうございます」の紙を、当時の日記に、退院した後貼り付けたっけな。

 

マリアさまをどうぞ。

 わたしは、マリアになれなかった。

 

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 これは、別のブログに数年前に書いたお話と同じエピソードなのですけれど。せっかく、クリスマスが近づいてきたので書き記します。クリスマスとは、何の日であるかみなさまはご存知でしょうか。世界の子どもたちのもとにサンタクロースがやって来る……。それもまた一つですけれど、一番(わたしの中で)大切なのは、なぜこの日が、子どもたちにとって喜びの日であるか。それは、クリスマスがイエス・キリストのお誕生日だからです。

 

 わたしは幼稚園に通っていた。その幼稚園はキリスト教プロテスタント)の教会が側にあり、そこで毎年クリスマスの時期に『クリスマス礼拝』が行われた。『クリスマス礼拝』というのは、この幼稚園ではいわゆる『お遊戯会』に相当する。子どもたちと保育者とで作り上げてきた出し物を発表する場である。それを保護者がお客さんとして見にくる発表会だ。年長児は毎年『降誕劇(ページェント)』をするという決まりがあった。降誕劇とは、イエスさまがこの世にお生まれになった聖書のエピソードを、劇や歌で表現すること。聖書のお話を知り、そしてクリスマスを、イエスさまの誕生を、みんなでいっしょにお祝いしましょう、喜び合いましょう。というものである。わたしは憧れている役があったのだ。それが、『マリアさま』だった。

 


 (ここからは簡単にわたしが要約した、イエスさま降誕のお話しである)マリアさま(わたしはカトリック教育を受けていたわけではないので以降、マリアさんとする)とは、俗に言われる『聖母マリア』のこと。神さまの子ども、イエスさまを身籠った母親である。

ある日、マリアさんの前に一人の天使が現れた。大天使ガブリエルが、マリアさんのお腹の中には、赤ちゃんがいる。そして、そのお方は後に世界の救い主になられるお方で、名をイエスと名付けなさい。と告知する。マリアさんには旦那であるヨセフさんがいたが、まだ男性を知らない身体だった。マリアさんはとても驚いたが、天使のお告げを受け入れて、そのことをヨセフさんにお話しした。

ある時、人口調査の知らせが耳に届く。人々は生まれた地へ帰らなければならなくなった。ヨセフさんは、お腹の大きなマリアさんを連れて自分の故郷へ旅に出かけることになった……たどり着いたのはベツレヘムという土地。一晩休もうと、二人は宿を転々とするけれど、人口調査のために帰郷してきた人たちで、宿はどこも満室。「馬小屋なら空いていますが……」と言われ、二人は休む場所を与えて下さった神さまなら感謝しながら、馬小屋で休むことに決めた。

その夜、天使たちのお知らせや、星の光の導きで、救い主の誕生を知った羊飼いさんや、博士さんたちが、一目、イエスさまを拝みに行こう、お生まれになったことを祝おうと馬小屋に集まってきた。学者たちは当時希少な宝物(お香、油、黄金)を、イエスさまにプレゼントする。それはとても静かな静かな夜の出来事だった。これが、世界でいちばん最初のクリスマス。

 


 今は、わたしはすごく、人とお話をするのが苦手で、目立ちたくない。引っ込み思案の陰キャ•根暗だが、これは後天的にそうなった性格だ。家庭の環境が悪化したから——。それ以前は、人前に出たり、注目を浴びることが大好き。わたしは言葉の発達も(女の子であることを考慮しても(男児は言葉の発達が遅い傾向にある))早く、歌も正確な音程で歌えた(わたしの通っていた幼稚園の降誕劇には、歌を歌うシーンがあり、マリアさんやヨセフさん(主役)はソロパートがある)。わたしは——。ここには書けないけれど『マリアさま』というものに思い入れがあった。だってそれは——……。

 


 クリスマス礼拝が近づいて、担任の先生が配役を決めます。と発表した。わたしは心に決めていた。

「(マリアさまにりっこうほしたい……!)」

担任の先生が「マリアさまになりたい人?」と言った。わたしは手を挙げた。その時は、自分がマリアさんに立候補したことしか記憶に残っていない。

 


 わたしの幼稚園は、年少は1クラスで少人数だったが、年中と年長組は30人で一つのクラス。それが2クラスあった。改めて、『マリアさんオーディション』を行うと担任の先生から発表があり、わたしはオーディション会場の保育室に入った。そしたら、マリアさんになりたい女の子たちわたしのクラスからも、隣のクラスからも。保育室にたくさん座っているのを見て、わたしはびっくりした。

「(みんな……こんなに……マリアさまになりたいんだ)」

わたしは、マリアさんになれない人が可哀想だと思った。わたしより、もっと、マリアさまになりたいかもしれない。と思ったのだ。わたしは、マリアさんを志願することを諦めた。思えば、わたしは目立つことが好きだったり、言いたいこと言うことはあったが「欲しいものを欲しいと言う」ことが苦手で、母親に「これ買って!」と、わがままを言ったり、要求したりということが、わたしにはできない。と幼い心なりに思っていたのであった。

「せんせい、やっぱりマリアさまやめる……」

わたしは先生にお話しして、マリアさん役をやめて、オーディション会場の保育室を後にした。後になって、オーディションを勝ち抜いて、おっとりとして控えめなクラスメイトがマリアさんに選ばれたと知った時「どうしてあの子が……?」と正直思った。きっと、先生は子どもの性格や、その子そのものが持っている雰囲気も鑑みてマリアさん(そしてそのほかの配役を)を選ばれたのであろう。大人になった今ならわかる。癇癪起こして我が強くてガツガツしていて感情の乱高下が激しいわたしみたいな女の子は聖母マリアにふさわしくはない、穏やかで、控えめで、あったかで。後に『聖母』に育つような女の子を、先生方はマリアさんに選ばれたのだ。

 


 今でも、時々起こる。『マリアさまをどうぞ』現象。「わたしではなく、目の前のその人に、これが必要だ。わたしが手にするべきものではない。」そう思って、その場から離れて、でも苦しくて、ひとりで涙することがある。例えば、入院中に病棟で同室になった女子高生が、看護師さんたちから手厚いケアを受けて愛されているのを見て、あぁ、わたしの居場所はこの病棟にないんだ。と感じた時のように(いつか、この女子高生に対して抱えていた、わたしの醜い心をブログに書きたいなと思っているけれど)。

 


 ちなみに、結局わたしが降誕劇で演じたのは『お星さま』の役です(降誕劇にありがちな役ですが、人ですらないという。冷静に考えたらなんなの?これ)。わたしの通っていた幼稚園の、お星さまのセリフは一人につき一言だけ(わたしはとってもおしゃべりだったのに)。歌もほかのお星さま役の子どもたち(5、6人いた)と一緒に『おほしがひかる』という幼児さんびかを合唱するのみ。衣装も額に金の大きなお星さまを付けているだけで、あとは黒い長袖長ズボン(自前)と決まっている。マリアさん、ヨセフさんや天使さんはもちろん、宿屋さんにも羊飼いさん、博士さんにも、専用の衣装があるのに。わたしたちお星さまには額に着けるお面だけ。わたしの持っている能力(人前に立つことが好き、おしゃべり、歌える)に対して、持て余しすぎている…………。と思うが。当時のわたしは、祖母に生まれてはじめてのプラネタリウムに連れて行かれて……すっかり、宇宙の神秘な魅了されてしまった。男の子は、よく、はたらくくるまや電車•新幹線に詳しい子どもがいると思うが、わたしはまさしく、星博士だった。なので、望んでお星さまになりきったのだった。そんな星の光を博士は不思議に思い、調べて、「これは救い主がお生まれになった印だ!」と突き止め、星の光を頼りに、イエスさまのおられた馬小屋へ導かれたのです。

 

 

 

 


 みなさま、どうか穏やかなハッピーホリデー期間を。

うおぉ……もうすぐ年末だ。盆と年末年始は弟が帰省する。そうなると「弟が帰ってきたから」ということで、両家の祖父母の家に頻繁に出かけることになる。母方の祖母なんて一度じゃ済まない。二度も三度も「弟に会いたい」と食事に誘ってくる……。わたしは家から出たくないのに。

それに加えて、弟は週一で通勤をするように言われているものの、やろうと思えば永遠にリモートでもこなせる仕事。「人がいっぱいいて新幹線に乗れないから」と言って、弟は何週間も実家にいようとする……。家に一人きりでいる時だけが、わたしの安心安全時間なのに。弟のことは(大人になってからやっとそう感じ始めたけど)かわいいと思っているけれど……。弟かわいさだけでは。乗り切れないところもある。

 


 どうか、どうか。安心がなくて困り果てている、このブログを読んでいるみなさまが。どうか。クリスマスだけは……いえ、明日から。未来永劫ずっと。安全な場所で、安心した日々を送れますように。短い祈りですが、この祈りを。主、イエス•キリストの御名によって御前にお捧げいたします。𝑨𝒎𝒆𝒏₊˚⊹ ✟⋆₊ ⊹

いつまで休職すべきか。

 幼なじみ(以前ブログに書いた、父親を亡くした幼なじみとは別。社会人になり一人暮らしをしていたが、ストーカー被害に遭い実家に戻ってきた)から連絡が来た。

「かわいいお菓子を見つけたので、ぜひ第3さま食べてくだされ」

わたしも自宅にあった適当なお菓子を引っ張り出して、ドアノブに掛けておいた。ほんとうは顔を合わせてお話がしたいが。わたしはすっぴんにパジャマという出立ちでとてもじゃないが幼なじみとは会えない。

『♡幼なじみAちゃんへ♡ こんなものしか家になく申し訳ないけれど、召し上がれ。寒い中お仕事お疲れさま♡』というメモを紙袋に貼って、わたしの自宅のドアノブに吊るしておいた。同じマンションの違う棟に住む幼なじみは、うちの棟の暗証番号を知っている。静かにうちの目の前までやって来て、「お菓子をドアノブににかけましたわー!」(←なぜかお嬢様口調である。本人は多分意図していない)とLINEのメッセージが来た。

中身は、メゾピアノの絵がついた。有名洋菓子チェーン店とのコラボマカロンだった。

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わたしは家庭が裕福ではなかったので、メゾピアノどころかナルミヤ系とは無縁なファッションをしていたのだが……。しかし、幼なじみSちゃんを思い出す。(大学以降東京に住んでいる、もう一人の幼なじみ)彼女はいつも全新メゾピアノだったから。かわいく懐かしいスイーツに、わたしがお礼を言うと、「我らは平成女児ですから!つい買ってしまいました。第3ちゃんにも見て欲しくて」とメッセージが来る。続けて幼なじみは「近況報告なのですが、実は店長試験を受けることになりまして勉強中であります」と言った。

 

 幼なじみは四年生大学を卒業して今年で6年目になる(と思う)が、あのお店に勤めている勤務年数はもっと長い。学生時代、バイトしていた会社に、コネでもなんでもなく。正規で正社員採用試験を受けて見事内定を勝ち取った。彼女は奉仕の心を持っている。子どもを接客するのが一番楽しいと言っていた。

「過労死ラインに、足を突っ込んでいるの……」半年以上前、わたしに届いたメッセージ。彼女は、正社員になってから常に忙しく。接客業なので特に土日は人手がある。出勤を求められる。なかなか休みが合わない。その上残業がかなり続いているようで、早くこの、幼なじみの労働環境をなんとかしてやっておくれと思っていた矢先。なんと、店長の試験を受けるというのだ。

 

 幼なじみが店長を目指している一方で、わたしは何をしているんだ?3年間一生懸命福祉の仕事(詳しくは述べない)をしていたが、家庭環境の悪化で、幼少期からずっと抱えていたが誰にも言えず抱え込んできた抑うつがひどくなり、気分を落ち着けるために、一日に安定剤を40錠ほど飲む日もあった。パニックで通っていたメンクリには処方薬ODのせいか「うちでは診れない」といわれ、近所にある精神科単科の入院施設のある病院に送られた。そこで「入院が必要」と言われたのが3月の出来事で、「年度内はどうしても、わたしら働かなくてはいけないのです」と医者にわがままを言って、4月2日から数週間だが入院をした。それに伴い、これまで勤めていた職場は休職。退院した後も時短パート勤務として働いていた。睡眠障害で早寝早起きが難しくなり、職場が融通を利かせてくれて、午後から4時間。週に2日のパート契約を結んでくれていたのだが。

 去年の冬。冬というものはわたしは毎年具合が悪く娑婆にいないことも多い。この年も入院すら免れたものの、まともな生活のできない日々を送っていた。と思うのだが、正直思い出せない。記憶に残らないほど意識がはっきりしない。そのくらいにひどい生活だった。3月に事務員から「病棟ちゃん、出勤せな契約更新が切れてしまうよ」という催促の電話がかかって来たと思う。わたしは鼓舞されたように感じてうれしかったが、職場の気持ちに応えることはできず、契約更新のお話ができないまま。新年度を迎えてしまった。これまで闘病しながら3年間だらだらパートをしていたけれど、出て行くお金は大きく。入ってくるお金は(年金を除くと)実習フィーバーで店が閉まる最後の2時間だけやって来て1時間だけ接客し、閉店後1時間掃除をして帰っていた、まったくバイトに入れなかった大学生の時のバイト代と変わらない……。そんなで金が貯まるはずもなく、貯金は切り崩す一方。その貯金が、いよいよ尽きようとしている。

 

 せっかく無職になったんだ。この一年はゆっくり休むぞと心に決めた。刺したら、自分は本当に具合が悪くて今まで気合いだけで出勤していたことを知る。起き上がれなくなったからである。布団の上で横になる、それだけで精一杯の生活。

 そこから、三週間前やっと脱した。レキサルティのおかげである。「鬱がひどい」代謝に訴え「日中何でもいいから好きなことをしたい。今は読書はおろか、YouTubeももちろん。音楽すら聞けなくてずっと横になって過ごしている」と訴えて、ようやく、レキサルティが出た。飲み始めの一週間は変化がなかったが。ある日突然、ベッドから起き出して、パソコンをつけてみようかと思ったのだった。あの日から疲れることもあるけれど、家事をしたり……今ハマってるのは部屋の片付け(わたしがこの世で一番嫌いなことなのに)。(お片付けグッズを爆買いしてしまうのが今の悩み)

 

 ようやく身体が動き出したところで、幼なじみの「店長試験を受ける」という知らせ。焦らないはずがない。わたしが布団の中でぬくぬくしている間幼なじみは店長になろうとしているのだ。

 

 いつから……?はじめて「死にたい」と感じた小学六年生から?いいや。その前の、小学4年生の頃両親が毎日のように喧嘩をしまくっていたあの時から。あの時、わたしは無職を約束されたんだ。人生のつまづきを、約束された。

怒り狂って当たり散らして、弟のことはヨシヨシして、わたしにだけ厳しい躾をする母親と、家事育児を何もしない無関心な父親のご機嫌を常に伺いながら、二人の仲を紡ごうとしていた幼か日のわたし。まっすぐ育ち、心に病みのない、社会人になるわけがないじゃあないか。以前していた仕事の世界では、この、『ケア役をしてしまう』が良い方に転ぶ時もあったけど…………。

 

 家にいて安心安全なのは、平日の誰もいない静かな家の中だけ。わたしは、母親がガチャガチャと食器の音を立てて洗う音も、バタンバタンと家が壊れるほど大きな音を立ててドアを開け閉めするのが苦手である。母が常に不機嫌だった時期からずっと、こうだから。父親の咳払いや、スリッパを擦りながら歩く音も嫌い。これらは家庭内で戦争が起きる合図かもしれないから。

 

 わたしはどうしたら、働けるようになる?一度壊れた身体は戻らないように思う。前のように、シャカリキに働ける気がしない。あんなにたっぷり仕事を持ち帰って、眠るまでイアの中で仕事。シフト制なので早起きしたり少し遅く出勤したり。生活リズムをずらしながら生活するのは当たり前。それがまた、できるであろうか。わたしはまた社会に、出れるだろうか。いつ?今から?もう仕事を探すべき?

 

 復職のタイミングがわからない…………。

せめて、歯医者の通院に予約通りに行けるようになってから。職場にアプローチをしてみるか。

 

第3病棟の3回忌

 あれ?今日なんだ。てっきり10月17日がわたしの命日かと思ったよ。去年書いた日記を貼りますね。ところで3回忌って書いちゃったけど3回忌って丸2年経った時にやるやつ?それ去年じゃん!

自殺して2年が経った。 - LOVEと死ねの狭間

 

 自殺未遂から3年経った。今の現状をお話しします。わたしは3年前の今日、ベンゾを大量に飲み意識混濁(自分では薬がキマっている意識がないので無限に飲む)。通っているはるきゅんのいる精神科に行ったら「週に3回以上ODしたら入院ね!」と言っているはるきゅんが待ち構えている……前に通っていたメンクリに駆け込むも、たぶん取り合ってもらえなかった(が、時間前に連絡をとったと言うことで警察の時事長徴収があったらしく「警察沙汰にした患者さんはもう診れません」とのちに出禁になる)。恋人に「メンタル安定には豆乳がいいよ」と言われて、大嫌いな豆乳を買った。

ところが?ここで家の鍵がないことに気がついた。

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わたしは買ったものを玄関に並べた。時間は真昼間。親が帰ってくるまであと何時間とある。

「家の鍵がないと言うことは、死ねと言うことか」

 わたしは出かける時に肌身離さず持っているぬいぐるみがある。父の過ごしている部屋の窓の扉が開いていたので格子の間からぬいぐるみを入れたバッグを父の寝室に押し込んだ。この時、もう死のうと決めたんだと思う。

 おそらく、縄は100均で調達した。単では細すぎるので二重にして結ぶ。おかしかったのが、救急病院から精神科に入れられる、手続き中に携帯が返ってきて、ご丁寧に『もやい結び』と調べていたところ、わたしは近所の、たまに子供も遊んでいるような人目の中はないような公園を選んでしまった。そこ以外首が吊れそうになかったから。頭のとち狂っていたわたしは恋人と通話を繋ぎながら首を吊っていたのである。

「自撮り撮った」

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 送った写真はこれ。首が縄にかかるすんでのところといったところであろうか。(この自撮りは危険なので保存している)

このあと恋人の耳元から「ンゴ!」みたいな声が聞こえてうご〜と苦しんでいた様子であった。

近所の人が気づいてこれは大変だと言ったと言う。

「青いものを吐き出している」と言っていたらしい。それはフルニトラゼパムやでな。

その方の迅速な動き・連絡によりわたしのことは救急・消防へと連絡が行き。病院に着いた時?には心肺停止の状態だったという。あと一歩だったのになぁ。しかし些細な処置をされて、わたしは生き返ってしまった。医療器具のカードで首を絞めて暴れたと言う話と、見舞いに来た弟に対して「誰だかわからない」と言ったらしい。ずっと車椅子生活だったらしいがそんな回かわたしにはない。気がついたら歩いていたし、わたしが自分の意識を取り戻してから数日もしたらはるきゅんの待つ精神病院に搬送された。そこで4ヶ月ほどの最悪な時間を過ごした。

 

 

 

 3年経ってみて、わたしは躁を頻回に起こすタイプではなく、一度躁転したために付けられたのが双極性障害という病名なだけで、今も長いうつ期が続いている。

 特にわたしは冬になるとうつがひどくて、家から出られなくなる。朝起きられないから、シフトを午後からにしてもらった。それでも身体は動かなかった。フルタイムで3年、休職してから時間パートで務めるようになって4年が過ぎたけれど、ついにわたしは1日も出勤ができなくなった。契約の更新は4月1日。それまでに体調が戻って職場に来られれば、と。事務員に言われたが。それも叶わず。わたしは4月1日から無職になった。休職はしたけど。無職になったのははじめてだ。

 

 処方薬は一年で結構変わったと思う。まさに今日診察を受けてきたわけだが。ベンゾを減らしたい主治医 VS ベンゾ大好きなわたしの戦いが繰り広げられた。去年はブログを読む限りいろんな気分安定薬を飲まされていた。リスペリドンやシクレストなどなど。でもこれらは「あなたにとって頭の甘子にしかなってないかも」という主治医の判断で、なくされた。今飲んでいる気分安定薬は炭酸リチウムだけだ。他がなくなったところで別に。わたしの生活に変わりはなかった。

 しかし、シクレストを減らしたからか?不眠で眠れなくなった。わたしとしては睡眠薬を増やして欲しいわけだが。主治医は何と抗うつ剤を増やしてきた。副作用の眠気でわたしを眠らす気だ。まずはトラゾドンというのを飲んだ。これはあまり意味を感じなかった。眠れない。そこで次に先生が出してきたのがミルタザピンであった。わたしの先生は絶対マイスリー出さないマンなのだ。このミルタザピンは眠りによく作用する。やがて、抑うつがひどいと訴えると「お好きな抗うつ剤あります?」と言われた。え!選べるの……?でも、躁鬱の患者に抗うつ剤は出ないものだと勝手に思っていたわたしは効果の高い抗うつ剤など知らなかった。「ではミルタザピンを一度最大まで増やしますか?」ということになったのである。ミルタザピンをMAX(ほんとうにMAXなのか?)に増やしたら、これまであった身体のだるさ、重さがマシになった。それから、これは先月からだが不安時に飲む薬としてレキソタンが増えた。パニックや不安・不穏のあるフォロワーに向けて「おすすめの安定剤はないか?」とツイートしたら、3件リプが来たのだが。3人ともレキソタンの名を挙げたのだった。ということを話したら、前にレキソタンの名をあげたときは縛っていたくせに、易々とレキソタンを出してくれた主治医。正直効いている気がしないが不安な時に飲める薬は多ければ多いほどいい。

 

 生活面は、たまにパソコンで、趣味で撮っている動画編集をやりたくない、やりたくない、と言いながらやり、そしてベッドに寝そべって(これがわたしの絵を描くスタイルだ)絵を描く。これのみ。これは体調のいい時の、わたしの過ごし方だ。

 友だちはたったの一人もいなくなってしまった。(幼なじみお友だちは別。どんだけ嫌いでも家族ぐるみの中だから)わたしの周りの人はわたしがうつ病すぎてみんなわたしに激昂して去っていった(理不尽)。わたしが他人を怒らせる才があるのか、たまたま激昂するようなタイプを依存させてしまうのか。突然関係を断たれてしまうことも少なくない。誰からも誘いがない(友だちがいないからね)。

 

 わたしが外出する用事といえば、スーパーに買い物に行くこと。はるきゅんが主治医だった時に、「作業療法的に料理をしたらどう?家から出ても、料理ができれば助けになるし」と言われたら入れることにした。毎週水曜日。今年で4年目になる。外食で潰れてしまう以外は、ちゃんと毎週使っている。

 わたしは台所が怖かった。母のテリトリーな気がして。中学生くらいの頃。料理に郷里を持ったことがあったのだ。だから母と一緒に料理を作りたい、教わりたいらと思ったのだ。が、母に頼んだら「イヤ」と言われた「だって面倒くさいだもん、教えるの」。以後、一度も料理を作りたいなどと言う意欲は湧かなくなった。次いで、わたしには『すごく家事ができない女』だという感覚があった。いや、ただ家事をしたことがないだけだったのだけれど。

 料理をしてみた。わたしの料理はすごく大雑把である。味見をする方が稀。計らずに(だって家にメジャースプーンとかないから)目分量で醤油やみりんや砂糖をどばどば入れる。これが意外にも家族に好評。九州生まれ。恋味の好きな家族からはわたしの調味料どばどば料理がヒットしたみたいだ。得意料理は酢豚である。

 

 貯金が、「あなたはうつ病です。入院が必要なので休職してください」と言われた4年前から半分に減った。正直、働けていないことにかなり焦りを感じている。

わたしのしあわせってなに?この腐った、離婚済みで家庭内別居しているような両親が住む家庭から出ること?どう働いて?わたしは前までお世話になっていた職場でまた働きたい。恩もある。わたしはあの仕事以外何もできない。

 

 突然ですが、好きな女の子がいるんです。(推し)彼女は双極性障害(多分複雑性?)PTSDなどわたしと同じような病気を持ちながら。わたしより5つも若い、超若者なんですけど。旦那さんがおられるんです。その方は料理は卵焼きしか作れないと言っていた。おそらく家事も何もしていないのだろう。旦那さんが仕事いっちゃった悲しい、お父さんお母さん会いたい(実家は自宅の県内の模様)。といつもツイートしている……。あるとか質問に答える動画を出していました。リスナーの方が「わたしも無職で焦っています。〇〇さんも無職と度々言っしゃっていますがこのまま無職を続けることにむいてどう思いますか(要約)」というような質問を取り上げた。その女の子はすごくこの質問に触れづらそうにしていたのだけれど、「私は、もう無理だなって。無職でいいかなって。思っています」と答えていた(気がする)。…………いいね、って思うんです。お若いのに、健常者の理解あるパートナーがいて。自分が働かなくても収入があって家計はなんとかなって。実家の父や母とも仲が良くて(私から見てると、その、「ODやめろ!自傷やめろ!騒いだら救急車を呼ぶぞ!」という関わりはちょっと。違うかなと思うけど)(彼女のPTSDは、おそらくツイートの内容から察するに兄(二人いるそうで、片方が悪い兄なのだそうです)から受けた暴力、虐げが今も彼女を苦しめている、と思われます)

 

 わたしなんてこの先、生きてても何もいいことなんかありませんよ。わたしは病名だけが同じの正反対だ。パートナーは頑張っても障害者雇用。それも何年先の話になるのか。わたしはもう働けません。あの頃のようには。わたしの職種の手取り知ってます?13万円です。独身の先輩方はみんな実家から出られなくて、いい歳どころか。もうとっくに。私の親よりも年上で、家に置いてきた自分の父母がどう過ごしているか心配だとか急に母親を病院に連れて行かなければならなくなったとか。これが福祉職の現状です。わたしもそうなるんです。手取り13万で家から出れなくて、ずっと父親から薬を管理され、ずっと母親から罵詈雑言を浴びせられて過ごすんです。これなわたしの人生なんです。

 

 早く終わらせたい。また薬増えなかった。死ね。

 

 

 

 

 

P.S.わたしの仮命日は10月17日でした。

 

 

 

自殺して2年が経った。

 公園で首を吊り、心肺停止になりそこから生還して2年が経った。あの時と今と、何か変わっただろうか。

 

 たぶん、何も変わってない。仕事に行く頻度も変わってない。いや、むしろ行けてないかも。週に二回。一日四時間の勤務。それを一ヶ月のうちよくても半分くらいしか出勤できていない。

 家族も特に変わってない。わたしが自殺しても特に変わりはない。これはありがたい。当たらず障らずしておいてくれる。まだ離婚しているのに両親は同居してる。いっそどっちかいなくなってくれた方がマシだと思うこともある。でもわたしが離婚に反対しちゃったから。きっとこうなってる。苦しい。

 医者は変わった。大好きだったはるきゅんが異動になり院長に引き継がれた。しかしこの院長がクソでわたしは治療のやる気をなくした。愕然としたのはわたしが「複雑性PTSDの治療がしたい」と言うと「複雑性PTSD?皇室の方がなってたやつね」と言ってそれから黙った。病気に対する知識がないんだなこの医者はと思った。今までにいただろうお前の患者に複雑性PTSD。いないわけがない。でもそういうケアをこれまで一切してこなかったんだなこの人はって思った。わたしは院長に信頼が置けず、並行して精神保健福祉センターに通うようになった。母親に薬物依存症の治療のために連れて行かれた施設だったがそこで今の主治医と出会った。主治医は物腰が柔らかくて分類するならはるきゅん系の、話しているだけでこちらも癒されるようなタイプの医者である。主治医がセンターを退職することになり、県内の病院に勤務すると聞き、市外なのでちょっと遠いが今はバスと新幹線と地下鉄を乗り継いで主治医の元へ通っている。

 薬物依存も変わりないような気がする。でも自殺を決行した日は『週に三回過量服薬が認められたら入院しましょう』と当時の主治医であるはるきゅんに言われていた。今は飲んでも週に一、二回程度。今の主治医曰くコントロールしながら薬を使えているとのことで、ヤク中ではあるが多少落ち着いてはいる……のかな?

 処方薬もガラッと変わったよ。まだこの頃は抗うつ剤が出てた。躁鬱の人って抗うつ剤飲んじゃダメなの??わたし今抗うつ剤出されてないんだけど。お薬手帳見直したら朝夕でワイパックス出てたんだ。良いなぁ。パロキセチンジプレキサ。でも今は全部気分安定薬になった。シクレストとリスペリドン(錠剤)と炭酸リチウム。これでほんとうに鬱に効くのかなぁって。ちょっと不安。全部どちらかといえば躁を抑える作用が強い薬な気がする。安定剤は朝にデパスを一錠だけしか出してもらえない。主治医がベンゾアンチなの。ベンゾ大好きだからつらい。

 病名はうつ病から双極性障害になった。いや?自殺した時からそうだっけ?病気はどうだろう。良くなったのかな。あんまり良くなってないと思う。未だにロープ買いたいなって思うもん(二年前まで100均に売ってたのにね)。死にたいなと思う。でも踏ん切りがつかない。あの時なんであんなに死に向かっていけたんだろう。ちょっとあの頃の自分を尊敬する。今のわたしには自殺するほどのエネルギーがあんまりない。この世にいても良いのかな。ってあんまり思えてもいないけど。嫌いだけど家族もいて、愛してくれる恋人もいて。この場所から離れることができない。

 

 何より一番変わったのが体重!13キロ太った!もう自己肯定感下がりまくり。デブスつらすぎ。

 

 

 

ずっと、愛しています

 妻が、旦那に最期に贈った言葉。

「変わらずずっと、愛しています」そう言って、妻は棺桶の上に白い花束を置いた。

 

 今日は葬儀だった。幼なじみの父親が急逝した。

ガタイが良くて、その身体のように大きな父性を持っているような、あたたかくてやさしいパパだった。赤ちゃんだった頃からわたしたちとは家族間で交流があり、この間、最後に会った時も。マンションの駐車場の抽選会で、マスクをつけた大男が手を振ってきた。まさかわたしたちに振っているとは思わないで、顔も見らずに通り過ぎようとしたら、俺だよ俺、と言って怒ってきた。今度北海道に出張で行くから、お土産を買ってくるからね。真に受けてなかったのに。ほんとうに、『白い恋人』を届けてくれた幼なじみのパパ。真面目な人だった。

わたしの母は「ただ眠っているだけみたい」、亡くなっているのが信じられないと言った。しかし、わたしの目には死者の顔に見えた。血色はすごく良い。でも、口が開いている格好が、不自然に硬直していて、たしかにこれはもう二度と目覚めないのかもしれないと思った。今日、たくさんのお花に埋もれた幼なじみのパパの顔を見たら昨日よりもっと涙が出た。

「よく頑張ったね。ありがとう。大好きだよ。ドライブに連れて行って。わたし、待ってる」いつも呼んでたあだ名を呼びかけて、わたしは別れを言った。

わたしが最後に入院した時。首を吊って入院した時。幼なじみのパパは、わたしをものすごく気にかけてくれたらしい。わたしを気分転換に、ドライブにでも連れ出そうか。そう言ってくれていたらしい。入院中にくれた幼なじみ一家での寄せ書きにも『バイクの後ろいつでも空いてます。(妻の名前)は乗ってくれません』と書いてあった。これがわたしにとって幼なじみパパの形見になるなんて。思わなかった。何故わたしは助かって、幼なじみのパパは助からなかったんだろう。わからない。妹を亡くした時の戸川純のような気分だった。この通夜と葬儀を過ごして、感じたこと考えたことはたくさんあった。

 

 わたしは、愛し合っている大人を知らない。わたしの家庭は仮面夫婦。親同士が思いやり、慈しみ合い、愛し合っているところを見たことがない。家族愛に夫婦間の愛はない。わたしは愛を知らずに育ってきた。でも、幼なじみは違う。幼なじみは傍目から見れば、息子二人も立派に育ち、兄弟仲も夫婦仲も良く。幼なじみは今日の葬儀でマイクの前に立ち自分たちを「家族バカ」と言った。すごくあたたかで平和な家庭だった。

でも、それにも終わりが来るんだと知った。愛を誓っても、いつかはこうして別れが来るのだということを、知った。目の当たりにしてしまった。永遠の愛なんて無くなってしまうんだとわかった。

 

 幼なじみパパの死を受けて、わたしは深く悲しんだ。式中はずっとずっと泣いていた。でもほんとうはもっともっとこの胸の内を表現したかったし、それを誰かに受け止めて欲しかった。でも、その時、わたしのそばには何もなくて、誰もいなくて、泣き叫ぶ相手がいなかった。わたしのヒスを受け止めてくれる人はいなかった。

幼なじみは泣きながら、最近結婚したばかりの奥さんを抱きしめていた。幼なじみの弟も、自分の彼女を呼び寄せて、抱いた。わたしも、この気持ちを誰かと共に分かち合って、抱きしめて、泣いてくれる人が欲しかった。もっと近くで、彼の愛を感じたかった。

 

 わたしの恋人は東京にいる。新幹線で4時間半の距離。涙を流したら、その涙が渇く前に、その胸に抱き止めて泣かせてくれる人が、ここに欲しいと思った。わたしは悲劇的な不幸の最中に、しあわせの一幕を見たんだ。見せつけられた。わたしには、それがない。彼らの持っているものが、なにもない。仕事、信頼、幸せで安心できる家族、居場所、ほんとうに、なにもない。

わたしはひとり、福岡の地で静かに泣きながら、一人で立ち尽くし、やがて黙って去るしかなかった。

 

ずっと、愛しています。愛だけでは。敵わない。現実に。

 

 

覚えてないんだね

 大晦日の車内。去年は病棟にいたけど、今年は娑婆で大晦日を迎えられた。我が家は毎年大晦日の日には朝から出かけて、夜に食べるご馳走の食材を買い、すこし離れたイオンモールまで行ってショッピングをするというのが例年のお決まりである。二年ぶりに行ったあのイオンからZARAが消えていたのもショックだけど、車内でのこんなやりとりもわたしはなんだか寂しかった。覚えてないんだね。

 

 コストコで食材を買って、祖母の家に運び込んだ。そしてお昼時。イオンに着く前に腹ごしらえをしよう、さて何を食べようかと車内で話していた時のこと。わたしがうどんの話をしたから、家族はすっかりうどんを食べる気になって、道中のうどん屋を探していた。その途中、車窓からコメダ珈琲店が見えた。

「前にコメダでお昼ご飯を食べたこともあったよ」大晦日の昼食をどこでとるか。イオンモールのフードコートで食べることもあったし(早めに昼食をとっておかないと夕食が入らなくなるため今年は却下)、コストコで男たちはホットドッグを、わたしたち女はクラムチャウダーを(あんまりたくさん食べすぎると夜のご馳走が食べられなくなるから)食べることもあった。しかし三年前の大晦日、わたしたちはコメダ珈琲店で昼食をとったことがあった。

しかし、信じられない。母親が口を開いた。

「そんなの、全然覚えてない」

え?あのコメダ珈琲店での風景と家族の最悪の団欒を覚えていないだって?

わたしは弟にも尋ねた「コメダでお昼ご飯食べたことあるよね、弟ポン」

弟ポンは「あったね」と言った。ほら、やっぱり。子どもたちは覚えている。

 

 三年前の大晦日、食事の途中に父親が口を開いた。

「転勤になって九州営業所になった。福岡に戻ります」

するとそれを聞いた母が即座に「有り得ない、絶対無理」と言い放った。

この時、父は熊本にいた。わたしたち家族を福岡に置いて、父は単身赴任をしていた。転勤が決まり、福岡にある九州営業所に配属されることが決まったと家族に告げた。ところが、母はそれを拒絶した。

「絶対住めない」

一緒には住めない、母が冷たく、ヒステリックに鳴いた。明日は元旦。大晦日の買い出し。我が家が一年で一番のご馳走を食べて、年末年始のセールの中で目一杯ショッピングして。楽しい大晦日。その始まりに、母は家族の団欒を一瞬にして台無しにした。我が家に戦慄が訪れた。その地を、あの光景を。コメダ珈琲店を。覚えていないだって?

 

 この翌日、2021年の1月1日。母は話があると言って家族をリビングに集めた。もう父親とは暮らせない、私は出ていくと宣言した。わたしも弟も泣いて嫌がった。わたしの家庭はもうずっと両親が仮面夫婦。父親のことを母親は無視をしたし、キツく当たった。そのヒステリーをわたしたち子どもが浴びることもあった。見ているだけで不愉快だった。父親はいつかうつ病になって自殺するんじゃないかと不安だった。母はいつも怒っていて不機嫌なのでわたしは息を吐く間も無く、家庭の中に安心などなかった。いつかこの日が来ることは分かっていたけれど、この日が来ることがものすごく怖かった。ほんとうに、絶望した。

この日からわたしの人生は転落を続けている。両親の離婚がショックで、わたしは市販薬をバリバリボリボリ飲むようになった。ベンゾで日々のつらい記憶を消した。毎日死にたいと言って薬を食べ続けた。それを見ていた当時の恋人は、わたしを恐れてわたしを捨てた。過去に自分も希死念慮を抱いていたことがあった、それを思い出してしまうと言って泣かれた。「ほんとうに死のうと思ったことがある?」そう言われた日、わたしは博多駅で首を吊ろうと思っていた。しかし彼があんまりにも可哀想に泣くもんで心配になり、さようならと去っていく彼につきまとって自宅とは違う行き先の電車に乗った。知らない駅まで、彼を見送ったら呆気に取られた気になって、首を吊らずに家路についた。健全な家族(健全ではなかったけど、わたしは健全な家族でいられるように、両親の間に揉まれながらずっと努力して来た)と好きな人を失ったわたしは荒れに荒れ、毎日薬をジャラジャラと飲んでいた。メンクリからは過量服薬と自殺企図が問題になり追い出されて今通っている入院施設のある精神科に。そこで初めてうつ病という病名がつけられて、そのままはじめての入院に。この時の大うつがまだまだ続いていて、まだまだ生活はままならない。仕事に毎日は通えないし、まだ過量服薬に逃げる癖はある。いや、ほんとうは家族が破綻した幼い時からずっと、わたしはほんのりと死にたいと思っていた。

 

 ほぼ5年手帳、2021年から始まっている。

『家はメチャクチャ。父が熊本から家に帰ってくる。ママは出ていくと言っている。私は……どこに身を置けば良い?こんな日に。離婚決定!!!サイテー!』

ここからわたしが人生から転落していく様が、つぶさに記されている。わたしは、まだ忘れられない。三年前のあの日のコメダ珈琲店のことも、守りたかった家族が、指の隙間からすべりおちて崩れていったあの瞬間のことを。