わたしの主治医は男性なのだが「お母さんになりたい」と話していたことがあった。うむ、わたしの先生にはぴったりだと思う。わたしの中ではどちらかといえば父性のイメージを感じるが、患者の中には彼の持つ柔和な空気感に母性や包容力なんかを感じたりもするだろう。
先日、障害者手帳が取れるかどうかお尋ねした。まあ、結果は、医者の口はもっとやわらかい言葉で説明してくれたが、要約するとまあ厳しいということだ。主治医の経験上、わたしほどの若者で傷病名がうつ病のみとなると、通った前例をあまり知らないということだ。発達障害見つかれば別なのかもしれないが。少々歯痒い。わたしは自分のことアスペだと思ってるから。
とはいえ、わたしが望むなら診断書を作成してくださってくださるそうなので、挑戦するかどうかはわたしの気持ち次第ということになった。
精神障害者手帳を取得したところで、わたしの生活の何が変わる?
わたしにはそれがよくわからなくて、今は何も考えられない。
手帳を持ってしまったら障害者雇用オンリーになっちまうんだろうか。となると今の職場から追放されちまうんじゃないか。
年金が出るのはありがたいが、障害者雇用となると、やはり金銭面的にも不安だ、し。国から『障害者』と認められちまうわけだから。そうなった後の衝撃とショックと不安とに、わたしはどう太刀打ちするんだろう、というのが医者の懸念でもある。わからん。不安を煽って「やっぱやめます」って言われて無駄な診断書代を出させまいとしているのかもしれないし。
主治医が、相談員の方に聞いてみるのもいいかもね。と言った。「相談員、誰だったか覚えてる?」と言われた。
知らねーよ。入院書類には名前は書いてあったけど。いちいち覚えてない。知りません、と答えた。
「あれ?会わなかった?」と医者は言った。わたしは「お会いしてないです」とたしかな意思を声に込めた。なんだかつらくなっちまったのだ。わたしは病棟の中で愛に飢えていたのに、わたしが人と関わる機会を病院は省いてしまったんだ。
医者は「じゃあ、入院中に会ってたのは僕くらいなのかな」と言った。まったく、そうだよ。
わたしが入院して最初にぶち込まれたのは急性病棟だった。といってもそこしか空きがなかったから。ここが第4病棟なのだ。
一見老人介護施設のようだが常に誰かの話し声がしているという感じで、叫び声が出たり、怒鳴り声(そのほとんどが側から見れば独り言である)がしていたりした。
わたしは個室に隔離されていた。某感染症の対策で、二週間この個室からは一歩も出られない。出られないのにナースコールがなくて用事があっても看護師を呼ばなかったり、なんかつらいことは他にもごちゃごちゃあったが、もっとつらかったのは心を許せる看護師に出会えなかったことだ。
もう少し時間が欲しかったってこと。
二週間の隔離期間を経て、わたしは第3病棟に移された。男女がこの階で療養していて、4階で見たような白髪の汚いお婆さんもいれば、親より少し若いかな、くらいの人もいれば、わたしより若い人だって。いた。わたしは元々、ここが適正な居場所だったわけだが。突然病室の外に出されて、集団での病院生活を送ることになり。そしてガラリと看護師のメンツも総替えになってしまい困惑した。
4階の看護師さんに比べて3階の看護師さんは平均年齢が若い。わたしと一つ二つも歳も変わらない看護師さんたちがにこにこしながらも、バリバリに働いている姿を見て惨めになった。いや、これもまた話が脱線した。
とにかく、知らない看護師、そして知らない患者と集団で突然生活することになり、わたしはかなり困惑したし、こんなところにはいられない、わたしはここが居場所ではない、と部屋を移されて一時間くらい廊下でうずくまって泣いた。一人で。人知れず。幸い看護師にも気付かれずに。いいんだ。知らない看護師に慰められたかったわけじゃない。
わたしはずっと、毎日心の中で思っていた。
『先生に会いたい』
この思いに、わたしの一ヶ月という入院生活は翻弄されまくりだった。先生への執着があるからにして、打ち砕かれた心が、場面が、たくさんあった。
入院生活はトラウマだった。失望と嫉妬と居場所のなさが極限だったから。
わたしは、主治医との関わりしかなかったから、主治医に執着しすぎたのだ。愛着を抱きすぎた。
わたしは、願うならばもっと、愛着を抱ける相手が欲しかった。
他の患者さんが看護師さんや作業療法士さんと仲良さげに話している姿を見て苦しかった。わたしにはその権利がなかった。誰も、知らない人だから。
つまり、安全基地の話に例えればわたしの基地は主治医がひとつだけ。他の患者さんは、他の職員にも安全基地を見出しているのだ。
とてもつらくて、吐き出すと感情の失禁が抑えられないであろうから、断片的には話したかも知れないが、この苦しみの全容を、医者に喋ったことはない。
苦しくて忘れたいけど、どこにも消化できずに、ふと思い出してはあの心の苦しみを思い出す日々を、今でも送っている。
子どもも大人も、豊かな愛着関係を。